オスタリッヒ Ostarrichi(=オーストリア)

西暦千年を前にした996年、アルプスに近いこの地域一帯をさす「オスタリッヒ」(=オーストリア)という名前が初めて文書に登場します。

フランク王国のカール大帝は、アヴァール人との戦いに勝ったのち辺境の防衛体制を整備し、エンス川・ラーブ川・ドラウ川の間にカロリング朝オストマルク(東部辺境支配地)をおきました。
9世紀末にはマジャール人がオーストリアの地に侵入し、ウィーン近郊でフランク王国軍と戦いました。907年にはハンガリー軍がバイエルン守備軍に壊滅的な打撃を与えています。
こうして東部辺境支配地は滅びましたが、955年オットー大帝はマジャール人を破り、ようやくこの地の奪回に成功します。970年頃には、エツペンシュタイン家の統治下に独立した「ケルンテン辺境地」が設けられました。
976年、バイエルン貴族の家柄であるバーベンベルク家のレオポルトが、エンス川とトライゼン川の間の地の領主に封じられました。

バーベンベルク家の支配
この地の新しい領主となったバーベンベルク家は、当初メルクに居城をもっていたと思われます。そののち居城は東へ移され、1156年ついにハインリヒ2世がウィーンに宮廷を移しました。
その後バーベンベルク家の当主は、勢力圏を徐々に広げていき、ドナウ河の北の地へ、また東方や南方へと領土を拡張しました。西暦千年を前にした996年、アルプスに近いこの地域一帯をさす「オスタリッヒ」(=オーストリア)という名前が初めて文書に登場します。
バーベンベルク家の開拓や移住政策は1200年頃までに完了しています。これにあたっては同家が寄進した僧院や修道院が開拓に多大な貢献をし、オーストリアの文化の中心になりました。
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関連項目

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    20世紀

    第1次世界大戦
    1914年6月28日、サラエボでオーストリア皇太子フランツ・フェルディナントが暗殺されます。これは、第1次世界大戦勃発のひとつの引き金となりました。
    ヨーロッパの列強は4年間にわたり敵対し合って無意味な戦いを続けましたが、戦局を決定したのはアメリカ合衆国の参戦でした。オーストリア=ハンガリー帝国、ドイツ帝国、その同盟国トルコ側が敗北して、それまでのヨーロッパの秩序は崩壊しました。

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