640年におよぶハプスブルク家統治

権力確立 
ハプスブルク家の支配は、はじめから安定していたわけではなく、しばしば反乱もおきています。早くからハプスブルク家の支配下にあったスイスでも反乱が起き、モアガルテンの戦いで敗北したハプスブルク家はスイスの領土を失いました。


「建設公」と呼ばれる有能なルドルフ4世は、ルクセンブルク家の皇帝カール4世の「金印勅書」によってその地位を無視されたと感じて、「大特許状」と称される文書を偽造し、ハプスブルク家のより高い地位を証明しようとしました。この文書にもとづく権利は、後世の皇帝フリードリヒ3世によって認められました。
このルドルフの治世(1358〜1365)は短かったのですが、この間にチロル伯領と ヴィント辺境伯領の一部を支配下に入れています。またルドルフは、ウィーン大学を創設し、ウィーンのゴシック様式の聖シュテファン大寺院の拡張工事を行 い、文化面でも多大な功績を残しています。

その後数十年間、相続による領土分割や一族の間の抗争によってハプスブルク家の権力は衰退します。スイスではさらに多くの領土を失うものの、そのかわりに現在のフォアアールベルク州の一部を獲得しています。

アルブレヒト5世になってようやく領土の平和が回復され、アルブレヒトと皇帝ジギスムントの娘との結婚によってルクセンブルク家の領土も相続しました。

オスマントルコの侵入 
14世紀にヨーロッパへ進出しはじめたオスマントルコは、次第に大陸への脅威となっていきました。オスマントルコは、1453年にコンスタンティノープル を占領すると、遠征軍を送って西進を開始し、ハプスブルク家の領土は絶えざる危険にさらされますトルコ軍は2度にわたってウィーンにまで迫りました (1529年の第1次ウィーン包囲、1683年の第2次ウィーン包囲)。

オーストリア軍は、多大な犠牲を払いながらトルコ軍を撃退し、ハンガリーを奪回することができました。オーストリアが大国への道を歩んだのは、軍事の天才サヴォイ公オイゲンに負うところが多大でした。

オイゲン公は3人の皇帝(レオポルト1世、ヨゼフ1世およびカール6世)に仕え、軍事面で傑出していたばかりでなく政治家としてもその才能を発揮しました。
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関連項目

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    20世紀

    第1次世界大戦
    1914年6月28日、サラエボでオーストリア皇太子フランツ・フェルディナントが暗殺されます。これは、第1次世界大戦勃発のひとつの引き金となりました。
    ヨーロッパの列強は4年間にわたり敵対し合って無意味な戦いを続けましたが、戦局を決定したのはアメリカ合衆国の参戦でした。オーストリア=ハンガリー帝国、ドイツ帝国、その同盟国トルコ側が敗北して、それまでのヨーロッパの秩序は崩壊しました。

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