19世紀

1848年の市民革命 
フランスに端を発する市民革命の思想は、1848年の春オーストリアにも伝わりました。自由主義者たちは憲法制定と言論の自由を要求し、悪評高かったメッテルニヒの警察国家体制は一掃されて、メッテルニヒは覚悟を決めてイギリスに亡命します。
しかし10月には、革命は鎮圧され保守主義が全面的な勝利を収めました。皇帝フェルディナントの跡を継いだ若きフランツ・ヨーゼフ1世は、新絶対主義の体制を確立します。

フランツ・ヨーゼフがクリミヤ戦争(1854〜56)で採用した問題の多い中立政策に よって、オーストリアはヨーロッパで孤立の危機に直面しました。この結果、フランスと同盟を結びイタリア独立運動を進めていたサルデイニアに、オーストリ アが単独で敵対することとなります。
1859年マゲンタとソルフェリーノの戦いに敗れ、オーストリアはロンバルディア地方を手放さなければならなくなります。また、議会開設を求める国内の要求に対しても、「十月勅書」や「二月勅令」で譲歩を余儀なくされました。

ドイツ連邦からオーストリアの全面的排除を狙っていたプロイセンにたいし、オーストリアは1866年ケーニヒグレーツの戦いに敗れました。同時期のイタリアでの戦いには勝利したものの、国土統一を目指すイタリアにたいしヴェネト地方を譲り渡さなければなりませんでした。
プロイセン宰相オットー・フォン・ビスマルクが賢明な融和政策を取ったためプロイセンに領土を譲らずにすみましたが、オーストリアはドイツ連邦から最終的に閉め出され、これ以降はドイツ帝国にたいする影響力を完全に失いました。

オーストリア=ハンガリー二重帝国 
オーストリアは、これに先立ち1848〜49年のハンガリー反乱をロシアの援助のもとに鎮圧していましたが、プロイセンに敗北した結果、内政上の理由からハンガリーに対し融和政策を模索するしかなくなります。
1867年、オーストリアとハンガリーは同等の権利を有する国家連合をつくりましたが、これは共通の君主をいただき、外交・財政・軍隊など明確に定められた分野を共有するものでした。
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関連項目

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    20世紀

    第1次世界大戦
    1914年6月28日、サラエボでオーストリア皇太子フランツ・フェルディナントが暗殺されます。これは、第1次世界大戦勃発のひとつの引き金となりました。
    ヨーロッパの列強は4年間にわたり敵対し合って無意味な戦いを続けましたが、戦局を決定したのはアメリカ合衆国の参戦でした。オーストリア=ハンガリー帝国、ドイツ帝国、その同盟国トルコ側が敗北して、それまでのヨーロッパの秩序は崩壊しました。

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