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20世紀

第1次世界大戦 1914年6月28日、サラエボでオーストリア皇太子フランツ・フェルディナントが暗殺されます。これは、第1次世界大戦勃発のひとつの引き金となりました。 ヨーロッパの列強は4年間にわたり敵対し合って無意味な戦いを続けましたが、戦局を決定したのはアメリカ合衆国の参戦でした。オーストリア=ハンガリー帝国、ドイツ帝国、その同盟国トルコ側が敗北して、それまでのヨーロッパの秩序は崩壊しました。

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こうしてオーストリア=ハンガリー二重帝国は崩壊していくつもの民族国家に分かれ、それに取り残された部分からオーストリア共和国が誕生しました。

オーストリア共和国

「誰も望む者のなかった国」1918から1938年のオーストリア

最後のオーストリア皇帝カール1世が皇位放棄を宣言した翌日、暫定国民議会はドイツ・オーストリア共和国を宣言し、同時にドイツへの帰属を発表しました。 しかし、新しい共和国体制を定めた講和条約(=国家条約)によりドイツへの帰属が禁止され、国名はオーストリアのみになりました。
オーストリアは南チロルやズデーテン地方を失いましたが、その代わりに西ハンガリー(今日のブルゲンラント州)を獲得しました。生まれたばかりのオースト リア共和国は、経済的非常事態のため解決困難な問題に直面しました。当初かつての帝国領土に成立した新興国が重要な原料の輸出を拒否したため、ウィーンの 市民はほとんど飢餓状態に追い込まれました。

1934年7月、ナチス党はクーデターを企ててドルフス首相を殺害しましたが、この企ては鎮圧され首謀者は軍事裁判にかけられました。ドルフスの後任のク ルト・シュシュニク首相は、イタリアやハンガリーとの同盟によりオーストリアの独立を維持しようと試みました。しかし、ナチ支配下のドイツ帝国は外交政策 で着々と成功を収め、オーストリアへの圧力を強めました。シュシュニクは、1938年アドルフ・ヒトラーと個人的に会見して関係改善に努めましたが、この 試みは失敗に終わりました。

オーストリア併合
シュシュニク内閣は、最後の手段として国民投票でオーストリアの独立を守ろうとしましたが、これに対しドイツ側は最後通牒および1938年3月12日のオーストリア侵攻で応えました。
むろん、当時すでにナチスを支持するオーストリア人がかなりの数にのぼっていたのも事実です。1938年3月13日、ドイツによるオーストリア「併合」が 完了し、これが同年4月10日の国民投票によって合法化されました。こうして占領されたオーストリアは、「オストマルク法」(1939年)によって国とし ての独立を失い、オーストリアという名も消し去られました。 
その後まもなく第2次世界大戦が勃発し、兵役資格のあるオーストリア人はすべて動員されました。これに先立ちニュルンベルク法がオーストリアにも適用されるようになり、オーストリアのユダヤ人を破滅の道に導きました。
少数のユダヤ人だけが時期を逸せず亡命できましたが、1938年3月以後は国外脱出はほとんど認められず、大部分のユダヤ人はナチスのユダヤ人絶滅政策の 犠牲となりました。 また、ナチス政権にたいする抵抗運動に加わったオーストリア人も、多くが逮捕されて収容所に送られたり処刑されたりしました。
1945年の終戦後、暫定政府がオーストリア独立を宣言しましたが、10年間はイギリス、フランス、アメリカ、ソビエトの連合軍によって占領下に置かれました。

21世紀に向けて
1955年5月15日に連合軍とオーストリアの間で国家条約の調印が結ばれ、オーストリアは共和国として完全な独立と主権を回復。永世中立国と平和を掲げる近代国家に生まれ変わりました。
アルプスの共和国は、「鉄のカーテン」の時代には東と西を結ぶ重要な役割を果たしました。オーストリアは1956年のハンガリーの蜂起、1968年のプラハの春では、多くの難民を受け入れました。1995年にはEUに加盟し、ヨーローッパ圏の中心的存在になっています。また、国連機関、OPECの所在地として、重要な国際会議や首脳会談などの場となっています。