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グスタフ・マーラー (1860 - 1911)

作曲家、指揮者。ウィーン宮廷歌劇場、ウィーン・フィルの指揮者として活躍しました。

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マーラーが創作に励んだ時期は、音楽史上で過渡期にあたる時代でした。彼は19世紀後半のオーストリア帝国に根をもっていますが、ワーグナーの影響を強く受けて、それを脱していきました。調性の世界にしっかりと留まりながらも、平明な器楽編成法や、調和のとれた旋律、音楽内容の飾り気のない明快さを持ち合わせている、という点で、すでに20世紀の素地をつくりました。才能ある若いマーラーは、ライバッハ、ブダペスト、プラハから、ライプツィヒ、ハンブルクの音楽監督の職を歴任し、オーストリア帝国・ドイツ帝国の指揮者として華々しい一歩を踏み出しました。1897年、ウィーン宮廷歌劇場の総監督の職を得たとき、経歴の頂点に達しました。10年という長い就任中、エネルギッシュで理想主義的に、芸術の統合に力を注ぎ、自分の総合音楽劇場という着想を決して曲げようとしませんでした。管理面でもきわめて厳しく、劇場の旧弊を一掃し、ずさんな練習や根強い縁者びいきを排除して、実力と功績で選んだ一座をつくりあげました。また、厳しいリハーサルシステムを導入し、歌手を登用したり、解雇したりし、自ら手本を示して、劇場を改革し、新しい息吹を吹き込みました。

ウィーン・フィルハーモニーの指揮者として(1898-1901)マーラーは、ブルッカナー、ドヴォルザーク、リヒャルト・シュトラウスといった、新しい作曲家達の曲をレパートリーに入れました。ウィーンの評価は分かれました。オペラ愛好家は喝采を浴びせましたが、音楽関係者の内部では、対決姿勢を強め、悪意ある陰謀をたくらむようになりました。社交術などひとかけらもないマーラーは、音楽界で多くの敵を作り、それでもひたむきに音楽の美を追求したのです。しかし、1907年、ついに終局が訪れました。行く手の障害物を取り除くことに疲れ、娘の死に悩み、自分の心臓の危険な状態に生活態度を全面的に変える必要があると診断を受けて、ついにマーラーはウィーンを去り、ニューヨークのメトロポリタン・フィルハーモニーの指揮者兼音楽監督の地位を受け入れました。ニューヨークで成功して4年の後、治療のためパリに行き、最終的にはウィーンに戻り、そこで1911年に息を引き取りました。

マーラーは夏の作曲家で、主な作品のほとんどをオペラ・シーズンの合間の夏に、オーストリア北部のオーバーエステレイヒ州や南部のケルンテン州の湖畔の避暑地で書き上げました。ニューヨークにいるときでさえ、南チロルに戻ってきては、休暇中に作曲に励んだのです。

彼が完成させた9つの交響曲と未完成の弟10交響曲、カンタータ、連作歌曲には、マーラーの個性があますところなく表されています。「私の時代がやってくるだろう」という、マーラーの言葉は予言的です。なぜなら彼はウィーンで自分の交響曲を上演したことはなく、また、第二次世界大戦後に至るまで、マーラーの作品はほとんど無視されていました。今では、彼はオーストリアで本格的な評価を受け、理解されていいるのです。