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640年におよぶハプスブルク家統治

中欧と東欧に広く君臨したハプスブルク家の華麗なる足跡は、輝かしい歴史の遺物としてオーストリア全土に現在も残されています。

もともとスイス東北部、ライン川流域に根城をもつ地方の豪族であった「ハプスブルク家」の名がヨーロッパ史上に明確に刻まれることとなったのは、始祖のルドルフ一世が1273年に神聖ローマ帝国皇帝に選出されてからです。中世ヨーロッパの数多くの名門と巧みな婚姻、同盟政策で領地を広げ、陽の沈むことのない世界帝国を築き上げました。

権力確立への道
 
ハプスブルク家の支配は、はじめから安定していたわけではなく、しばしば反乱もおきています。早くからハプスブルク家の支配下にあったスイスでも反乱が起き、モアガルテンの戦い(1315)で敗北したハプスブルク家はスイスの領土を失いました。

「建設公」と呼ばれる有能なルドルフ4世(1339~1365)は、ルクセンブルク家の皇帝カール4世の「金印勅書」によってその地位を無視されたと感じて、「大特許状」と称される文書を偽造し、ハプスブルク家のより高い地位を証明しようとしました。この文書にもとづく権利は、後世の皇帝フリードリヒ3世(1415~1493)の時に認められました。
このルドルフの治世(1358〜1365)は短かったのですが、この間にチロル伯領と ヴィント辺境伯領の一部を支配下に入れています。またルドルフは、ウィーン大学を創設し、ウィーンのゴシック様式の聖シュテファン大寺院の拡張工事を行 い、文化面でも多大な功績を残しています。

その後数十年間、相続による領土分割や一族の間の抗争によってハプスブルク家の権力は衰退します。スイスではさらに多くの領土を失うものの、そのかわりに現在のフォアアールベルク州の一部を獲得しています。

アルブレヒト5世/2世(1397~1439)になってようやく領土の平和が回復され、アルブレヒトと皇帝ジギスムントの娘との結婚によってルクセンブルク家の領土も相続しました。

オスマントルコの侵入 
14世紀にヨーロッパへ進出しはじめたオスマントルコは、次第に大陸への脅威となっていきました。オスマントルコは、1453年にコンスタンティノープル を占領すると、遠征軍を送って西進を開始し、ハプスブルク家の領土は絶えざる危険にさらされることになりました。トルコ軍は2度にわたってウィーンにまで迫りました (1529年と1683年)。

1683年の第2次ウィーン包囲のときは、オーストリア軍は、多大な犠牲を払いながらトルコ軍を撃退し、ハンガリーを奪回することができました。オーストリアが大国への道を歩んだのは、軍事の天才サヴォイ公オイゲンに負うところが多大でした。


ハプスブルク帝国の重要な皇帝

マキシミリアン一世(1459~1519)
「中世最後の騎士」と呼ばれるこの皇帝は、ドイツ王と神聖ローマ帝国皇帝を兼任。子供二人をスペインの王子、王女と、孫二人をハンガリーの王子、王女とそれぞれ二重に結婚させ、次代カール五世の「世界帝国」実現の礎を築きます。学芸の庇護者としても知られ、黄金の小屋根など、インスブルックにゆかりの場所が数多く残っています。

マリア・テレジア(1717~1780)
女帝マリア・テレジアは、後の神聖ローマ皇帝フランツ一世と結婚して16人の子供をもうけた「祖国の母」として、今も国民に慕われています。政治的手腕に秀で、教育制度の改革や産業の振興に努力しました。夫の死後、深い悲しみから生涯喪服を脱ぐことはなかったとされています。フランスのルイ16世に嫁ぎ、、断頭台に送られたマリー・アントワネットの実母です。

フランツ・ヨーゼフ一世(1830~1916)
即位当初は保守に徹していた皇帝も、後にはウィーン城壁を取り除いてリング通りをつくらせるなど、近代的な国造りに専念し、国民の敬愛を集めました。しかし、晩年は一族の非業の死が重なり、失意のうちに没します。それは多民族国家の強力な求心力を失うことになり、帝国が終焉を迎えるきっかけとなりました。

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