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ヨハン・シュトラウス, 息子 (1825 - 1899)

ウィーナー・ワルツの全盛時代を築き「ワルツ王」と呼ばれる。

Monument of Johann Strauss, Vienna
父もウィーンの作曲家で、ウィンナ・ワルツの基礎を作り、「ワルツの父」と呼ばれる。
代表作「ラデッツキー行進曲」

シュトラウス2世は芸術家になろうという大志を抱いたために、自分の長男を職業音楽家にしたくなかった父親との間に大きなあつれきを引き起こしました。しかし、父のヨハンが妻子を残して若い女の子と再婚してから、息子に対する支配力は大幅に弱まり、息子のヨハンは19歳の時、自分のオーケストラを持ち、ランナーと父親の楽団と張り合うようになりました。

最初の帝政ロシアへの演奏旅行は大成功で、ヨハン・ジュニアは父の後を継いで宮廷舞踏会の音楽監督となりました。28歳の頃には、彼は300人の器楽奏者を雇って管理し、彼らは毎晩カフェや、レストランや、ダンス場の多くのオーケストラで演奏しました。ヨハンは、しばしば一日に6~7ヵ所で指揮をしました。

1862年、彼は、活発で自分と気の合ったヘンリエッテ・トレフツと結婚しました。彼女は彼の事務的な仕事をきちんときりもりして、彼が安心してワルツやポルカ、ギャロップなどで、彼の偉大な音楽的独創性と脈打つ生命力に満ちた作品を作曲し、演奏することができるようにしたのです。あのお高くとまったブラームスでさえシュトラウスの音楽を愛し、ワーグナーも、シュトラウスの音楽的感性の深さと彼の手際の良さを大いに讃えていました。

1868年のロンドン演奏旅行は、彼の名声を広めました。オッフェンバックとの個人的な出会いから、シュトラウス2世はオペレッタを手掛ける気になりました。もっともオッフェンバックが直接シュトラウスを激励した、という話は、大いに眉つばものです。彼の初期の習作は一度も上演されずに終わりましたが、その後「インディゴ」で当たり、以降次々とヒットしました。
アメリカ合衆国の独立100周年を記念してシュトラウスはボストンを訪れ、2万人の歌手が出演するという巨大なコンサートを開き、「美しき青きドナウ」を指揮しました。

1878年、彼の妻が死ぬと、その悲しみの反動から、彼は不運な再婚をします。このエピソードの後、彼な知的で朗らかな3番目の妻アデーレと一緒になり、幸福を見い出しました。彼はオペレッタやオーケストラ曲を書き続け、ワルツを、しゃれたメロディをもつ洗練された芸術の域まで高めました。1899年の彼の死は、多くの人々にとって、一時代の終わりを告げるものでした。