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音楽家の足跡を訪ねて

ウィーンを中心に数多くの音楽家たちの生家、住居、最期の家、墓などをお訪ねください。

Haus der Musik Vienna, Haydn Hall © Haus der Musik, Wien
ウィーン中央墓地 Zentralfriedhof
市の中心から約5キロ。市電72番で約20分。第2門前で下車。入り口からまっすぐルエガー教会に向かって約200mほど行った左側、『名誉区32a 』に多くの音楽家が眠っています。ベートーヴェン、シューベルト、ヨハン・シュトラウス家、ブラームス、ランナー、モーツァルト(記念碑)、ズッペ、ヴォ ルフの墓があり、グループ32cにはシェーンベルク、シュトルツほかが眠っています。

ベートーヴェン Ludwig van Beethoven
パスクァラーティ・ハウス(ウィーン1区、メルカーバスタイ8)
1804年から1815年にかけて下宿していた家で、現在は市立記念館になっています。途中3回ほど飛び出したことがあるとはいえ、「引っ越し魔」ベー トーヴェンとしては比較的長く住んだ家のひとつ。家の名は彼の良き理解者でもあった家主のパスクァラーティ男爵の名にちなみます。

エロイカ・ハウス(ウィーン19区、デープリンガー・ハウプトシュトラーセ92)
1803〜1804年にかけてこの家に住み、交響曲第3番「エロイカ」を書きました。ウィーン市街地の北にあり、中心部から車で約20分。

ハイリゲンシュタットの遺書の家(ウィーン19区、プローブスガッセ)
数年前から始まった耳の病気が悪化するばかりで、ほとんど聴力を失ったベートーヴェンは絶望のあまり、1802年10月6日、ここで弟宛に手紙の形で遺書を書きました。

このほか「田園」を書いた家(グリンツィンガー・シュトラーセ64)や、1817年5月から2か月間住んだ家(プファールプラッツ2)もあります。また近くの「ベートーヴェンの小径(ベートーヴェンガング)」をたどれば当時の雰囲気を偲ぶこともできます。

モーツァルト Wolfgang Amadeus Mozart
ザルツブルクに生まれた天才作曲家は、25才から35才でこの世を去るまでにウィーンに住み、数多くの名作を残しました。
モーツァルトハウス(旧称フィガロハウス、1区、ドームガッセ5)
1784年から1787年まで住んでいた家で、ハイドンや若き日のベートーヴェンもここを訪れています。この家でオペラ「フィガロの結婚」を作曲しました。

シューベルト Franz Schubert
生家(ウィーン9区、ヌースドルファーシュトラーセ54)1797年1月31日に生まれ、1801年の秋まで住んだ家。現在博物館になっており、遺品や資料が展示されています。

最期の家(ウィーン4区、ケッテンブルュッケンガッセ6)1828年11月19日に息をひきとるまでの3か月間をここ、兄フェルディナントの住居で過ごしました。現在は記念館になっています。

市立公園(ウィーンのシュタットパーク)内に、1872年クントマン制作、五線紙とペンを手にした像があります。

ハイドン Josef Haydn
記念館(ウィーン6区、ハイドンガッセ19)1797年から1809年、77才で永眠するまでの晩年を過ごした家。死が訪れるまで毎日欠かさず「皇帝賛 歌」を弾いていたといいます。この家で「天地創造」「四季」などのオラトリオが作曲されました。現在は博物館。ブラームスの記念室も併設。墓はブルゲンラ ント州都アイゼンシュタットにあります。

ヨハン・シュトラウス(子) Johann Strauss (Son)
父のヨハン・シュトラウス I 世や弟のヨーゼフ、エドゥアルト共に、一家でウインナワルツの黄金時代を築きました。
住居(ウィーン2区、プラターシュトラーセ54)妻のヘンリエッテと共に1863年から1870年まで住んだ家。ここで1867年、有名な「美しく青きドナウ」を完成しました。
記念像:市立公園(シュタットパーク)内に、バイオリンを弾きながら指揮をとる姿のワルツ王の立像があります。

ベルク Alban Berg
音楽は独学でしたが後にシェーンベルクに師事し、新ウィーン楽派の作曲家として室内音楽や歌曲、そして2つのオペラ「ヴォツェック」と「ルル」を遺しました。生涯のほとんどを生まれ故郷のウィーンで過ごしています。
墓:ヒーツィング墓地

ブラームス Johannes Brahms
ハンブルクに生まれましたが29歳の時にウィーンに移り、亡くなるまでの35年間、ウィーンではほとんど同じ住まいにとどまりました。作曲活動のかたわら1872年から1876年まで楽友協会の音楽監督をつとめています。
ハイドン記念館内の2階の1室がブラームスにあてられています。
墓:中央墓地名誉区
ミュルツシュラーク(Muerzzuschlag):オーストリアで唯一のブラームス記念館

ブルックナー Anton Bruckner
リンツに近い聖フロリアン修道院で少年時代は聖歌隊員として、後にはオルガニストとして活動。またリンツ大聖堂のオルガニストを経て、ウィーンの音楽学校やウィーン大学でも教鞭をとり、ウィーンで亡くなっています。
市立公園:ブルックナー記念像
アンスフェルデン(Ansfelden):ブルックナー記念館(生家)

レハール Franz Lehar
ハンガリーに生まれ、父と同様軍楽隊指揮者として帝国内をくまなく演奏して回った後、オペレッタの作曲家としてウィーンのオペレッタ第二の黄金期を築きました。余生は皇室の保養地バート・イシュルで過ごしています。
市立公園:レハール記念像
バート:イシュル(Bad Ischl):レハール・ヴィラ

リスト Franz List
「ピアノの魔術師」はハンガリーのライディング(現在オーストリア領)に生まれました。ウィーンではツェルニーやサリエリに師事。ヨーロッパ各国で熱狂的にもてはやされさまざまな逸話と作品を残し、バイロイトで客死しています。
ライディング(Raiding):リスト記念館(生家)

マーラー Gustav Mahler
グスタフ・マーラーは、1860年7月7日に当時ハプスブルク帝国の統治であったボヘミア地方のカリシュト村のユダヤ人家庭に生まれました。子供時代からたぐいまれなる音楽の才能を見せ、6歳のときから音楽教育を受け、15歳にしてウィーン音楽院に入学を許されました。
1893年から3シーズンの夏、美しいザルツカンマーグート地方のシュタインバッハのアッターゼー湖畔にて喧騒を離れ静かな環境で交響曲2、3番を作曲しました。
1897年から1907年の10年間はウィーン宮廷歌劇場で活躍し、大指揮者として全盛期を迎えました。
ヨーロッパ各地で音楽監督を歴任後、ウィーン国立歌劇場では異例の長い期間(1897〜1906年)総監督をつとめ、ここでその隆盛の一時期を画しました。享年51歳で没した後、遺言により愛娘の眠る墓地に葬られています。
国立歌劇場:ホワイエにロダンによるマーラーの胸像。
墓:グリンツィング墓地

ミレッカー Karl Millöcker
ウィーンに生まれてウィーン市立音楽院に学び、ウィーンやブダペストの劇場で指揮者として活動するかたわら、ウィーン・オペレッタの代表的作曲家としての地位を確立しました。ウィーン近郊のバーデンで亡くなっています。
墓:中央墓地

シェーンベルク Arnold Schoenberg
独学で作曲を学び、新しい音楽の表現形式を模索して一時ベルリンに移りますが、後にウィーンに戻って12音音楽を創始し、新ウィーン楽派の中心人物となります。晩年はカルフォルニアで過ごしました。
墓:中央墓地
ウィーン市内にシェーンベルク・センター

シュトルツ Robert Stolz
グラーツに生まれウィーン国立音楽院に学び、指揮者としてデビュー。作曲ではオペレッタで大成功を収め、1938年に渡米してブロードウェイやハリウッドでミュージカル、映画音楽にも活躍、ウィーンにて95歳で亡くなりました。
墓:中央墓地

ズッペ Franz von Suppe
ダルマチアのスプリト生まれ。ウィーンではザイフリートやゼヒターに師事し、ウィーン・オペレッタという新しいジャンルを創出しました。ウィーンの劇場のために100曲以上の作品を作曲しています。
墓:中央墓地