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ハプスブルク王朝

ハプスブルク家のルーツは13世紀に遡ります。スイス東北部にあるライン河上流域に根城をもった地方の豪族でしたが、その名がヨーロッパ史上に明確に刻まれるのは1273年、一族の始祖と言われるルドルフI世が神聖ローマ帝国の皇帝に選出されてからのことです。

以来、ハプスブルク家は中世ヨーロッパのあまたの名家と婚姻により結ばれ、その家領は時代と共に変遷するものの、オーストリアを核としてブルゴーニュ、ドイツ、ベルギー、イタリア、スペイン、ハンガリー、ボヘミアに及びました。
1918年までの約640年間、ヨーロッパの大半を支配下におさめ、その間約5世紀のあいだ神聖ローマ帝国の皇帝の地位を占めました。それだけに、現在に 至るヨーロッパの政治、経済、文化、学問などのあらゆる分野に、ハプスブルク家は深く関わり、影響を与え続けてきたのです。

フランツ・ヨーゼフ1世 Franz Joseph I (1830 -1916)
オーストリア皇帝、およびハンガリー国王。即位当初は保守に徹していた皇帝も、後にはウィーン城壁を取り除いてリング通りをつくらせるなど、近代的な国造りに専念し、国民の敬愛を集めました。
しかし、晩年は一族の非業の死が重なり、失意のうちに没しました。それは多民族国家の強力な求心力を失うこととなり、帝位を継いだカールI世の努力もむなしくハプスブルク帝国が終焉を迎えるきっかけとなりました。

エリーザベト皇妃(愛称「シシィ」) Elisabeth (Sissi) (1837-1898)
バイエルン公の次女として生を受け、1854年オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と結婚し、三人の皇女と皇太子ルドルフをもうけました。姑と衝突 し、宮廷にもなじめず、また最愛の息子を自殺によって失った彼女は、傷心の旅の途中、イタリアの無政府主義者によってジュネーヴで暗殺されました。
そのドラマチックな生涯は映画や小説になり、ミュ−ジカルは記録的な大ヒットとなり、日本では宝塚歌劇団などで日本語版が公演されました。2004年春、ウィーン王宮に皇妃の人生を辿る「シシィ博物館」が新設されました。

マキシミリアン1 世 Maximilian I (1459 -1519)
「中世最後の騎士」と呼ばれるこの皇帝は、ドイツ王と神聖ローマ皇帝を兼任。ハンガリー勢力を駆逐して版図を拡大し、ボヘミア、ハンガリー王位継承権をも得ました。
子供二人をスペインの王子・王女と、孫二人をハンガリーの王子・王女とそれぞれ二重に結婚させ、次代カールV世の「世界帝国」実現の礎を築きました。学芸の庇護者としても知られ、黄金の小屋根など、インスブルックにゆかりの場所が数多く残っています。

マリア・テレジア Maria Theresia (1717-1780)
女帝マリア・テレジアは、後の神聖ローマ皇帝フランツ1 世と結婚して16人の子供をもうけた「祖国の母」として、今も国民に慕われています。父カールVI世の死後、オーストリア女帝として君臨。政治的手腕に秀で、教育制度の改革や産業の振興に努力しました。
夫を亡くした1765年より、長男ヨーゼフII世との共同統治を始めましたが、深い悲しみから生涯喪服を脱ぐことはなかったとされています。娘のひとり、マリー・アントワネットは、フランスのルイ16世に嫁ぎましたが、フランス革命に遭い断頭台に消えました。

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