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グスタフ・クリムトと女性たち

グスタフ・クリムトは初期の仕事を除き、肖像画は女性しか描きませんでした。デッサンと共に、これらの絵画は、彼が美術史上最高のエロチシズムの巨匠の一人であることを証明しています

Belvedere Vienna, Klimt Collection © Belvedere Vienna/ Ian Ehm
グスタフ・クリムトは一度も結婚婚せずに、彼の母が死ぬまで母と2人で暮らしました。彼は世紀末のウィーンで、自身の死が訪れる3年前まで、女性モデルたちや肖像画を依頼した上流階級の女性たちとの数え切れないスキャンダルにさらされました。通常は修道士の姿に似た絵描用のスモック(仕事着)姿で撮られることの多かった彼の写真を見ると、彼は厳格でよそよそしく見えます。しかし、クリムトは様々な女性に14人もの子供を産ませたと言われています。彼にまつわるもう一つの謎が、生涯にわたり付き合っていたエミーリエ・フレーゲとの関係です。二人の間に交わされた手紙が、彼の死後何十年も経ってから発見されましたが、それらは別に二人の関係を解明するものでなく、ただ繰り返しやり取りされた伝達の手段を示す、取るに足らない情報でしかありませんでした。とはいえ、それらの書簡はエミーリエ・フレーゲと画家との何十年にもわたり育んだ深い愛情を表したものであることに変わりありません。

多くのうわさがどれほど真実を含んでいたかは別として、女性たちと彼との関係は完全に明らかではありませんが、それらの出来事は時として、クリムト自身が認めたような関係になっていたことは確かなようです。彼がアルマ・シンドラー(後のアルマ・マーラー・ヴェルフェル夫人)を口説いたために起こった彼女の義父との口論の末に、ヴェニスから逃れてウィーンに舞い戻った時、クリムトは彼の到着をエミーリエ・フレーゲに知らせる電報を、すぐに送ることを忘れませんでした。彼がウィーンに慌てて戻ったのは、もしかすると2人のモデルがじきに彼の子供を出産することを思い出したからかも知れません。


女性たちの肖像画
クリムトの作品がほとんど無双の官能への称賛であることは、議論の余地がありません。クリムトの赤裸々な官能表現によるこれらの描画は、彼が高く評価していた若きエゴン・シーレの後の官能的な作品を驚くほど予感させています。しかしながら、クリムトは自分の絵のテーマを若い裸婦に限定することはなく、妊娠した女性、歳をとった女性、肉体的な美しさを失った女性など、あらゆる女性の姿を描きました。クリムトは、女性らしさを自然の現象として捉え、時間の経過と共に変遷する発達と減退という自然のサイクルを、女性の肖像画に表現することを探求しました。

創造力の絶頂期に、クリムトは肖像画の女性の姿を、表現機能を持った装飾体系の中に取り入れると同時に、絵画的な焦点を女性の顔と手に当てることによって、絵を見る人とモデルとの間に距離を創り上げました。後にその機能は色の要素が受け持ち、ある意味では色は絵の中で独自の生命を獲得し、以前装飾がそうしていたように、画中の2つの次元を強調しています。絵を見る人とモデルとの距離を得ようとするクリムトの努力をよそに、実際には見る人と、特徴づけるのが難しい描かれた女性との間に緊張関係を創り出すことに彼は成功しました。この緊張感は、これらクリムトの絵画をいつも際立たせている特別な魅力を醸し出すことに貢献しています。


「黄金のアデーレ」
「アデーレ・ブロッホ・バウアーの肖像 I」は、間違いなくクリムトの女性の肖像画創作の絶頂期を代表する作品でしょう。ラヴェンナのサン・ヴィターレ教会にある女帝テオドラを描いた6世紀のモザイク画をクリムトが見て触発されて、女性の美しさを賛美するモニュメントとして描いたこの作品は、彼のすべての時間とエネルギーを費やして、それにふさわしい女王的な姿を描き上げたものです。クリムトは金箔を多用しながら、大幅に色の使用を控えた技法や、芸術的伝統を結合させることに対する彼の深遠な意識は、他のヨーロッパの中心地で起こった類似する芸術運動と、ウィーンのユーゲントシュティールとを明確に区別している比類なきオーラを創造する目的のためのものなのです。それに加えて、細部に渡り繊細に描かれたアデーレ・ブロッホ・バウアーの顔は、主題が絵の普遍性の後ろに消えてしまうのを防いでいます。