
「私が女性を描く時は、私が好むような姿に描くのだ。これが結論だ!」
グスタフ・クリムトの完璧主義と彼が創作した作品に対する不満は、伝説に残るほど有名でした。例えば、彼が1914年から1916年の3年間をかけて描いた、エリーザベト・バッホーフェン・エヒトの肖像画の仕事。この仕事は、クリムトの大事なパトロンであるエリーザベトの母セリーナ・レデラーから依頼されたものでした。肖像画を描く間、画家のためにエリーザベトは何時間も座り続けなければなりませんでした。クリムトは彼女の様々なポーズをスケッチしましたが、彼はいつもその結果に満足できませんでした。なぜならエリーザベトが、彼女に付けられたポーズだけでなく、クリムトが選んだ彼女の衣裳を度々批判したために直ぐに口論となり、最後にはクリムトが「私が女性を描く時は、私が好むような姿に描くのだ。これが結論だ!」と怒鳴るのでした。
3年後、エリーザベト・バッホーフェン・エヒトは、もう我慢できなくなっていました。彼女はクリムトのアトリエに出向き、絵をイーゼルから外して家に持って帰ってしまいました。後にクリムトがレデラー家の応接間にその絵が飾ってあるのを見つけた時、彼は不機嫌に言いました、「その絵の人物は、決して彼女なんかじゃない」。それでも、セリーナ・レデラーは気を悪くせず、次に彼女の母親シャルロッテ・ピューリッツァーの肖像画をクリムトに描くよう依頼したのでした。
1888年にウィーンの社交界のために描いた重要な肖像画
1886年、グスタフ・クリムトが弟のエルンストとフランツ・マッチェと共に運営していた「芸術家商会」は、新しく建てられたブルク劇場の大階段ホールの装飾の仕事を依頼されます。この仕事は大きな利益をもたらしましたが、すべての絵画を描くために必要だったモデルたちを雇うには、まだ十分ではありませんでした。そこで、彼らは親類や友人に援助を求めました。このような訳で、シェークスピア劇場を飾る絵画には、クリムトの姉妹ヘルミネとヨハンナの姿を見ることができ、その他、彼らの兄弟ゲオルグも死にいくロメオ役のモデルを務め、3人の芸術家自身の姿もエリザベス朝の観衆の一部として描かれています。クリムトは、幅広のひだ襟の服を着た姿に自分を描きました。これが現存しているクリムトの唯一の自画像です。クリムトとフランツ・マッチェが旧ブルク劇場を装飾する絵画制作を依頼された1888年までには、社交界の状況はそれまでとは全く違う様に変貌し、ウィーンの上流階級の人々はこぞって絵の中に自分が描かれることに血道を上げていました。それ故、クリムトにとって200人の人々を描くためのモデルを揃えることは、もはや問題になりませんでした。それでもやはり、彼は絵の中に彼の姉妹や友人の姿を描き加えました。
クリムト反対
「クリムト反対」と題された出版物は、ウィーン大学の学部のためにクリムトが描き、大論争を呼んだ絵画を批判した芸術家を擁護するために、オーストリア人の作家であり批評家のヘルマン・バールがクリムトに対する敵対批評を集めて1903年に出版したものです。この三部作の絵画の内の「哲学」のために描いた初期のスケッチの一つには、下部にじっと思案に耽る少年の姿が描かれています。大学の教区牧師が、他の人間の肉体が絡みつくこの少年の姿を見た時に、「たぶん、この青年は哲学の事よりも、何処から赤ん坊が生まれるかについて考えているようだ」と批評しました。
脅かされた希望
妊娠した女性のモチーフを探求するというクリムトの着想は、恐らく1899年に彼の初めての子供を産んだモデルであり、愛人であったミッツィー・ツィマーマンの影響でしょう。1903年、クリムトが同じくこのテーマを追った「希望 I」を制作中に、ミッツィー・ツィマーマンが産んだ1歳になる彼の二番目の息子オットーが突然亡くなります。この死により、この絵に対する彼の構想は、全く違うものに変わってしまいました。身重の女性の背後にある、金が編み込まれた帯状の青い布は、まだ表題となっている希望を象徴してはいますが、その背後には不気味な姿のものたちが住み着いています。巨大なテュフォン(ギリシャ神話の怪物)に加え、ベートーヴェン・フリースにも描かれた魔物や、妊娠した母親をじっと凝視する小鬼の姿も数匹認められます。これらのものは、テュフォンの娘たちと関連したものと思われ、病気、死、狂気、情欲、不貞、苦悩を象徴しています。絵の所有者フリッツ・ヴァエルンドルファーは、この絵のための開き戸の付いた聖堂を作り、特別な来客が来た時だけその扉を開きます。
真珠よりクリムト
フリーデリケ・マリア・ビールは、ウィーンの前衛芸術家の熱狂的な心酔者で、1914年にはすでにエゴン・シーレに彼女の肖像画を依頼していました。彼女の求婚者で、画家でありグラフィック・デザイナーのハンス・ボエラーは、彼女に真珠のネックレスを買ってあげると約束しましたが、彼女はそれよりも、グスタフ・クリムトに自分の肖像画を描いてもらう方がいいわと彼に言いました。クリムトは、もうすでにシーレが彼女を描いていると指摘して、当初は依頼を丁重に断りましたが、結局最後には譲歩しました。ビールは、ウィーナー・ヴェルクシュテッテがデザインしたヨーロッパ毛長イタチの毛皮で作ったジャケットを着てポーズを取りました。クリムトはそのジャケットを裏返し、赤の絹の裏地を表にして着るように頼み、その格好で彼女を描きました。たぶん、彼は韓国の花瓶の装飾に触発され、絵の背景にアジア風の兵隊を多数描き加えました。数か月後、ビール女史がその絵を見た時、彼女は絵が仕上がったと判断しました。その時、彼女の友人たちは、クリムトがすべてを変更してしまう前に、彼女にすぐに絵を持ち帰るように忠告しました。
「ブロッホ(Bloch)というよりは、むしろブレッヒ(Blech)である」
1908年、皇帝フランツ・ヨーゼフの即位60周年の祝賀式典が行われました。新しいコンサート・ハウスの建設が予定されている場所には大きな空き地が広がり、巨大な展覧会の会場を建設するには最適な場所でした。1905年に、ヨーゼフ・ホフマン、オットー・ワグナー、コロマン・モーザー、カール・モルらと共に分離派を脱退したクリムトは、「クンストシャウ 1908」と呼ばれたこの展覧会のプロジェクトの主要な主催メンバーの一人でしたが、彼としては非常に稀な事に、展覧会の開会時にスピーチまで行っています。この展覧会でクリムトは、オーストリア絵画館が直ちに買い取った大作「接吻」を含む、いくつもの仕事を発表しています。それにもかかわらず、クリムトと彼の作品は、再び厳しく過小評価されてしまいます。今日、世界一高価な絵画と言われている「アデーレ・ブロッホ・バウアーの肖像I」について、ある批評家はこう書いています - 「金箔を多用してくれたお陰で、この肖像画はブロッホ(Bloch)というよりは、むしろブレッヒ(Blech=ドイツ語でブリキの事)である」。しかし、本当のスキャンダルとなったのは、クンストゥシャウに招かれ、初めて作品を一般公開した、クリムトが「若者の中で、最高の才能の持ち主」と評していたオスカー・ココシュカでした。展覧会の終了後、会場内のコーヒーハウスに芸術家たちが集まり、彼らが直面した辛辣な批判に対してどう対処すべきかを話し合いました。しかし、彼らは結局のところ、何もしないことに決めました。作家で批評家のルードヴィッヒ・ヘフェシィが述べているように、「行動を起こしても無意味だ。20年後には、我々が正しかったことが証明されるだろう」ということになったのでした。
「画家は二人しか存在しない。ベラスケスと私だけだ。」
グスタフ・クリムトはとてもよく旅行をしましたが、彼が旅を楽しんだことはありませんでした。彼が最も幸せに感じたていたのは、ウィーンの自宅にいる時と、毎年夏を過ごしていたザルツカンマーグートの湖水地帯にあるアッターゼー湖で過ごしている時でした。
1903年もグスタフ・クリムトは、旅をしていました。この時の行き先は、イタリアでした。クリムトは一度エミーレ・フレーゲへの手紙の中で自分の考えがうまく説明することが出来ずに非常に苛立ち、「言葉なぞ、クソ喰らえ!」と叫び、イタリアの印象について実にそっけなく彼女に伝えたことがありました。このことを考えると、「…ラヴェンナでは、散々な目に遭っているが、それにしてもモザイクはとてつもなく素晴らしい…」と述べたこのクリムトの言葉は、彼が芸術についてそれまで語った言葉の中で、最も熱のこもったものでしょう。
彼がビザンチン・モザイクの肖像画と出会ったのは、中世芸術の名作をフィレンツェで鑑賞した、わずか数日後のことでした。クリムトが手紙の中で述べたフィレンツェで見た作品に対するコメントは、「とても印象的な芸術だ」だけでした。クリムトがこれらの印象を、「絵画」という言語手段を完璧に習得したことによってはっきりと表現できるようになるまでには、この旅の後さらに数年の歳月を必要としました。しかし、クリムトが古の名人からインスピレーションを得るのに、旅などする必要はありませんでした。クリムトは、ウィーンの美術史博物館が多数所蔵するディエゴ・ベラスケスの肖像画を研究するだけでよかったのです。彼がこれらの作品にいかに感銘を受けたかは、この偉大なスペインの画家について彼が以前に述べた「画家は二人しか存在しない。ベラスケスと私だ。」という皮肉なコメントからも分かります。彼は最終的にビザンチン・モザイクとベラスケスの肖像画という2つの影響を、フリッツァ・リードラーの肖像画の中で融合し、金箔で一体化された表面を持つ特徴的な絵画を初めて完成させます。これが「黄金の時代」の始まりであり、それはやがて大作「接吻」によって頂点に達します。
「確かな事は、ただ一つ。私が哀れな愚か者だということだけです。」
ウィーンはいつも、グスタフ・クリムトとモデルや、上流ブルジョワ階級の女性パトロンとのスキャンダルで溢れていました。1897年にクリムトがアルマ・シンドラー(後のアルマ・マーラー・ヴェルフェル夫人)、彼女の母アンナ、義父カール・モルらと共にイタリアを旅行している時、クリムトは18才のアルマを口説き、彼女は夢中になりました。その結果、義父モルと激しい口論となり、クリムトは慌ただしくヴェニスを去りウィーンへと戻りました。後にクリムトはこの事件についての自責の念を、モルへの長い手紙の中で述べています。たぶん、彼はその手紙ですべてを説明するつもりだったのでしょうが、実際には何も説明していません。この芸術家は、手紙の中でアルマのことを「あの少女…」とよそよそしく呼び、「あの少女から私のことや、私との関係について色々と聞いていると思いますが、その一部は事実であり、また一部は作り話です。私自身、あの少女との関係ついてはっきりとしないのです。確かな事はただ一つ、私が哀れな愚か者だということです」。
芸術家にとって明らかに、非常に書きにくかったであろうこの手紙によって、この事件はクリムトとモルの間で解決し、二人の男の間に平和が訪れました。アルマだけが、「人生初の大恋愛」が過ぎ去っていった、という空虚な気持を抱いたまま、一人心の決着がついていませんでした。彼女は日記の中で、義父とクリムトとの和解した日の日付にバツ印を付け、「彼は戦いもせずに私をあきらめ、私を裏切った」と書き記しています。