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グラーツとハプスブルク家

グラーツでハプスブルク家の名前が初めて現れたのは、ハプスブルクのルドルフがグラーツに通行税制度と裁判権に関する一定の権利を保障した1281年頃のことです。しかし、15世紀になってやっとハプスブルク家の門地、家領拡大政策を確立したフリードリッヒ3世が、グラーツをお気に入りの居城都市のひとつにしたことで、その後、この町は都として急速に発展していきました。

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皇帝フリードリッヒ3世(1415〜1493年)
この皇帝を有名にした野心的なモットー“AEIOU”が本当に「全世界をあげてオーストリアに服する。」ということを意味したのかどうかは不明です。しかし、フリードリッヒ3世は、グラーツにいながら世界帝国の礎を築いたのです。ハプスブルク家のお家芸と言われる結婚政策は、この皇帝フリードリッヒ3世によって開始されました。
 
皇帝マキシミリアン1世(1459〜1519年)
皇帝フリードリッヒ3世の息子。1499年にグラーツ王宮のひと隅に、二重らせん階段を造らせました。それぞれ逆方向に回る石段は、ドイツ語圏でも例を見ない中世後期の傑作として名をはせています。
 
大公カール2世(1540〜1590年)
皇帝マキシシリアン1世によってハプスブルク家の領地は一度統合されましたが、1564年再び分割され、カール2世がシュタイヤマルク、ケルンテンとアドリア海沿岸の領土を継承しました。オスマントルコ軍と宗教改革の脅威にさらされながら、文化芸術の保護に尽くしました。
1585年にイエズス会大学を設立。「幸せなるオーストリア、汝、結婚せよ。」という家訓にしたがって、派手好きなカール大公は、イギリスのマリア・スチュアートやエリザベス女王との結婚でさえ考えるというとても実現できないような大胆な夢すら心に抱くような人物でした。こうした観点から、カール大公は、バイエルンのマリアを結婚したのです。16世紀、彼はトゥンメルプラッツにいくつもの厩舎と宮廷乗馬学校を設立しました。リピッツァーに1580年リピッツァー馬の故郷ともなる牧場を作らせたのも、この大公でした。
 
ヨハン大公(1782〜1859年)
シュタイヤマルクのプリンスと呼ばれるヨハン大公は、1782年、女帝マリア・テレジアの三男であるレオポルド(後の皇帝)とスペイン王女マリア・ルドヴィカの13番目の子どもとして生まれました。19世紀の激動の時代に活発化した産業教育や社会福祉の遠大な先覚者として広く知られています。
 
ヨハン大公は非常に活動的で、庶民的な人柄であり民主主義的な思想を持っていました。シュタイヤマルク州の農業、鉱工業、林業を大きな繁栄へと導き、その他にも学校や病院の開設を進め、学問の推進者ともなりました。1811年、グラーツにヨアネウムを設立。ヨアネウムはラテン語で、ヨハン館という意味ですが、自然科学の研究と技術教育を目的としていました。これが今日のレオーベン鉱業大学、グラーツ工科大学、州立ヨアネウム博物館、図書館などに発展しています。
 
ヨハン大公は、今なお民謡の中に謳いこまれていて、人々に敬慕されていますが、それはさまざまな偉業を果たしたという以外に、平民の娘アンナ・プロッフルとの恋を貫き通し、民間人とまでなって結婚したことにも由来しています。当時、このニュースは全ヨーロッパの王侯貴族たちを驚倒させ、民衆の拍手喝采を巻き起こしたと伝えられています。このような意味でも、ヨハン大公は、時代を先取りした偉大な人物としてグラーツの中央広場の中央に像が立ち、今も人々と共にいるのです。