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    オーストリアの歴史

    オーストリアは今日では中部ヨーロッパに位置する小国にすぎませんが、その起源は長い歴史を遡ります。この地には先史時代から人が住み、多くの民族がこの地を通過していきました。ヨーロッパの中央に位置するために、ヨーロッパ大陸のあらゆる歴史と運命をともにしてきたのです。

    この地に住み始めた民族の特定は資料がないためにできませんが、その後ここに定住するようになりました。
    新石器時代には農業や牧畜も営まれ、金属製の道具も使われるようになります。1991年にはアルプスのエッツ谷氷河で石器時代の男のミイラが発見され、センセーションをまき起こしました。

    ザルツカンマーグートのアッターゼー湖に沈んでいる湖上住居遺跡群は、紀元前5000年までその歴史を遡ることができるアルプス周辺の先史時代の湖上住居遺跡群の一つとして、2011年にユネスコ世界遺産に登録されました。現在、遺跡は資料のみ見られます。

    紀元前800年から400年にかけての寒冷期には、現在のオーストリアの地にはインド・ゲルマン語族に属するイリリア人が住み、すでに塩や金属の交易を活 発に行っていました。これは当時の貴重な出土品があった地名に由来しハルシュタット文化と名づけられていますが、この文化はヨーロッパ中と交易を営んでい たケルト人によって広められていきました。さらに西ヨーロッパから移り住んだ民族は、しっかりと組織化された国を築いていきます。その経済的な基盤となっ たのは、以前からの岩塩ならびにシュタイアマルク地方から採れる良質の鉄でした。

    紀元前15年以降約500年の間、ドナウ河までにいたるアルプス地帯は、アウグストゥス皇帝の治下でローマ帝国に編入されることになります。ローマの居住・生活様式と平行して、地中海文化の影響により、石造建築とアーチ型、紋様を具えた彫刻と壁画、装飾的なモザイク制作と高級な工芸技術も導入されまし た。

    民族大移動時代の混乱の中で、確かにローマ文化は衰退しましたが、初期キリスト教信仰は滅びず、聖フローリアンの殉教と聖セヴェーリンの名前としっかり結 び付いたのです。本来、キリスト教文化は、ザルツブルクと中世初期のバヨヴァリィ人(今日のバイエルン人)の修道院設立に端を発します。

    この時代の貴重な証拠として、ザルツブルク流派(絵画)の「ミレナウリス・コーデックス」とクレムスミュンスター大聖堂にある豪華な金盃”タッシロの盃” があります。リンツのマルティンスキルヒェ教会とカルンブルクのプファルツカペレ(王宮礼拝堂)には珍しいカロリング王朝時代の記念建造物が保存されてい ます。

    フランク王国のカール大帝は、アヴァール人との戦いに勝ったのち辺境の防衛体制を整備し、エンス川・ラーブ川・ドラウ川の間にカロリング朝オストマルク(東部辺境支配地)をおきました。
    9世紀末にはマジャール人がオーストリアの地に侵入し、ウィーン近郊でフランク王国軍と戦いました。907年にはハンガリー軍がバイエルン守備軍に壊滅的な打撃を与えています。
    こうして東部辺境支配地は滅びましたが、955年オットー大帝はマジャール人を破り、ようやくこの地の奪回に成功します。970年頃には、エツペンシュタイン家の統治下に独立した「ケルンテン辺境地」が設けられました。
    976年、バイエルン貴族の家柄であるバーベンベルク家のレオポルトが、エンス川とトライゼン川の間の地の領主に封じられました。

    バーベンベルク家の支配
    この地の新しい領主となったバーベンベルク家は、当初メルクに居城をもっていたと思われます。そののち居城は東へ移され、1156年ついにハインリヒ2世がウィーンに宮廷を移しました。
    その後バーベンベルク家の当主は、勢力圏を徐々に広げていき、ドナウ河の北の地へ、また東方や南方へと領土を拡張しました。西暦千年を前にした996年、アルプスに近いこの地域一帯をさす「オスタリッヒ」(=オーストリア)という名前が初めて文書に登場します。
    バーベンベルク家の開拓や移住政策は1200年頃までに完了しています。これにあたっては同家が寄進した僧院や修道院が開拓に多大な貢献をし、オーストリアの文化の中心になりました。

    もともとスイス東北部、ライン川流域に根城をもつ地方の豪族であった「ハプスブルク家」の名がヨーロッパ史上に明確に刻まれることとなったのは、始祖のルドルフ一世が1273年に神聖ローマ帝国皇帝に選出されてからです。中世ヨーロッパの数多くの名門と巧みな婚姻、同盟政策で領地を広げ、陽の沈むことのない世界帝国を築き上げました。

    権力確立への道
    ハプスブルク家の支配は、はじめから安定していたわけではなく、しばしば反乱もおきています。早くからハプスブルク家の支配下にあったスイスでも反乱が起き、モアガルテンの戦い(1315)で敗北したハプスブルク家はスイスの領土を失いました。

    「建設公」と呼ばれる有能なルドルフ4世(1339~1365)は、ルクセンブルク家の皇帝カール4世の「金印勅書」によってその地位を無視されたと感じて、「大特許状」と称される文書を偽造し、ハプスブルク家のより高い地位を証明しようとしました。この文書にもとづく権利は、後世の皇帝フリードリヒ3世(1415~1493)の時に認められました。
    このルドルフの治世(1358〜1365)は短かったのですが、この間にチロル伯領と ヴィント辺境伯領の一部を支配下に入れています。またルドルフは、ウィーン大学を創設し、ウィーンのゴシック様式の聖シュテファン大寺院の拡張工事を行 い、文化面でも多大な功績を残しています。
    その後数十年間、相続による領土分割や一族の間の抗争によってハプスブルク家の権力は衰退します。スイスではさらに多くの領土を失うものの、そのかわりに現在のフォアアールベルク州の一部を獲得しています。
    アルブレヒト5世/2世(1397~1439)になってようやく領土の平和が回復され、アルブレヒトと皇帝ジギスムントの娘との結婚によってルクセンブルク家の領土も相続しました。

    オスマントルコの侵入
    14世紀にヨーロッパへ進出しはじめたオスマントルコは、次第に大陸への脅威となっていきました。オスマントルコは、1453年にコンスタンティノープル を占領すると、遠征軍を送って西進を開始し、ハプスブルク家の領土は絶えざる危険にさらされることになりました。トルコ軍は2度にわたってウィーンにまで迫りました (1529年と1683年)。
    1683年の第2次ウィーン包囲のときは、オーストリア軍は、多大な犠牲を払いながらトルコ軍を撃退し、ハンガリーを奪回することができました。オーストリアが大国への道を歩んだのは、軍事の天才サヴォイ公オイゲンに負うところが多大でした。

    ハプスブルク帝国の重要な皇帝

    マキシミリアン一世(1459~1519)
    「中世最後の騎士」と呼ばれるこの皇帝は、ドイツ王と神聖ローマ帝国皇帝を兼任。子供二人をスペインの王子、王女と、孫二人をハンガリーの王子、王女とそれぞれ二重に結婚させ、次代カール五世の「世界帝国」実現の礎を築きます。学芸の庇護者としても知られ、黄金の小屋根など、インスブルックにゆかりの場所が数多く残っています。

    マリア・テレジア(1717~1780)
    女帝マリア・テレジアは、後の神聖ローマ皇帝フランツ一世と結婚して16人の子供をもうけた「祖国の母」として、今も国民に慕われています。政治的手腕に秀で、教育制度の改革や産業の振興に努力しました。夫の死後、深い悲しみから生涯喪服を脱ぐことはなかったとされています。フランスのルイ16世に嫁ぎ、、断頭台に送られたマリー・アントワネットの実母です。

    フランツ・ヨーゼフ一世(1830~1916)
    即位当初は保守に徹していた皇帝も、後にはウィーン城壁を取り除いてリング通りをつくらせるなど、近代的な国造りに専念し、国民の敬愛を集めました。しかし、晩年は一族の非業の死が重なり、失意のうちに没します。それは多民族国家の強力な求心力を失うことになり、帝国が終焉を迎えるきっかけとなりました。

    ハプスブルクの史跡を訪ねる

    フランツ・ヨーゼフがクリミヤ戦争(1854〜56)で採用した問題の多い中立政策に よって、オーストリアはヨーロッパで孤立の危機に直面しました。この結果、フランスと同盟を結びイタリア独立運動を進めていたサルデイニアに、オーストリ アが単独で敵対することとなります。
    1859年マゲンタとソルフェリーノの戦いに敗れ、オーストリアはロンバルディア地方を手放さなければならなくなります。また、議会開設を求める国内の要求に対しても、「十月勅書」や「二月勅令」で譲歩を余儀なくされました。

    ドイツ連邦からオーストリアの全面的排除を狙っていたプロイセンにたいし、オーストリアは1866年ケーニヒグレーツの戦いに敗れました。同時期のイタリアでの戦いには勝利したものの、国土統一を目指すイタリアにたいしヴェネト地方を譲り渡さなければなりませんでした。
    プロイセン宰相オットー・フォン・ビスマルクが賢明な融和政策を取ったためプロイセンに領土を譲らずにすみましたが、オーストリアはドイツ連邦から最終的に閉め出され、これ以降はドイツ帝国にたいする影響力を完全に失いました。

    オーストリア=ハンガリー二重帝国
    オーストリアは、これに先立ち1848〜49年のハンガリー反乱をロシアの援助のもとに鎮圧していましたが、プロイセンに敗北した結果、内政上の理由からハンガリーに対し融和政策を模索するしかなくなります。
    1867年、オーストリアとハンガリーは同等の権利を有する国家連合をつくりましたが、これは共通の君主をいただき、外交・財政・軍隊など明確に定められた分野を共有するものでした。

    国際都市への途上にあったウィーンは都市開発を推し進めるため、皇帝フランツ・ヨーゼフ一世は上流市民階級の住む旧市街と、台頭してくる市民階級の住む新市街を隔てる城壁を撤去し、環状通りを建設することを決め、1865年5月にはリング通りの一部が開通しました。それ以降50年をかけて現在の壮大な大通りを完成させました。

    こうしてオーストリア=ハンガリー二重帝国は崩壊していくつもの民族国家に分かれ、それに取り残された部分からオーストリア共和国が誕生しました。

    オーストリア共和国

    「誰も望む者のなかった国」1918から1938年のオーストリア

    最後のオーストリア皇帝カール1世が皇位放棄を宣言した翌日、暫定国民議会はドイツ・オーストリア共和国を宣言し、同時にドイツへの帰属を発表しました。 しかし、新しい共和国体制を定めた講和条約(=国家条約)によりドイツへの帰属が禁止され、国名はオーストリアのみになりました。
    オーストリアは南チロルやズデーテン地方を失いましたが、その代わりに西ハンガリー(今日のブルゲンラント州)を獲得しました。生まれたばかりのオースト リア共和国は、経済的非常事態のため解決困難な問題に直面しました。当初かつての帝国領土に成立した新興国が重要な原料の輸出を拒否したため、ウィーンの 市民はほとんど飢餓状態に追い込まれました。

    1934年7月、ナチス党はクーデターを企ててドルフス首相を殺害しましたが、この企ては鎮圧され首謀者は軍事裁判にかけられました。ドルフスの後任のク ルト・シュシュニク首相は、イタリアやハンガリーとの同盟によりオーストリアの独立を維持しようと試みました。しかし、ナチ支配下のドイツ帝国は外交政策 で着々と成功を収め、オーストリアへの圧力を強めました。シュシュニクは、1938年アドルフ・ヒトラーと個人的に会見して関係改善に努めましたが、この 試みは失敗に終わりました。

    オーストリア併合
    シュシュニク内閣は、最後の手段として国民投票でオーストリアの独立を守ろうとしましたが、これに対しドイツ側は最後通牒および1938年3月12日のオーストリア侵攻で応えました。
    むろん、当時すでにナチスを支持するオーストリア人がかなりの数にのぼっていたのも事実です。1938年3月13日、ドイツによるオーストリア「併合」が 完了し、これが同年4月10日の国民投票によって合法化されました。こうして占領されたオーストリアは、「オストマルク法」(1939年)によって国とし ての独立を失い、オーストリアという名も消し去られました。
    その後まもなく第2次世界大戦が勃発し、兵役資格のあるオーストリア人はすべて動員されました。これに先立ちニュルンベルク法がオーストリアにも適用されるようになり、オーストリアのユダヤ人を破滅の道に導きました。
    少数のユダヤ人だけが時期を逸せず亡命できましたが、1938年3月以後は国外脱出はほとんど認められず、大部分のユダヤ人はナチスのユダヤ人絶滅政策の 犠牲となりました。 また、ナチス政権にたいする抵抗運動に加わったオーストリア人も、多くが逮捕されて収容所に送られたり処刑されたりしました。
    1945年の終戦後、暫定政府がオーストリア独立を宣言しましたが、10年間はイギリス、フランス、アメリカ、ソビエトの連合軍によって占領下に置かれました。

    21世紀に向けて
    1955年5月15日に連合軍とオーストリアの間で国家条約の調印が結ばれ、オーストリアは共和国として完全な独立と主権を回復。永世中立国と平和を掲げる近代国家に生まれ変わりました。
    アルプスの共和国は、「鉄のカーテン」の時代には東と西を結ぶ重要な役割を果たしました。オーストリアは1956年のハンガリーの蜂起、1968年のプラハの春では、多くの難民を受け入れました。1995年にはEUに加盟し、ヨーローッパ圏の中心的存在になっています。また、国連機関、OPECの所在地として、重要な国際会議や首脳会談などの場となっています。

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