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    ブラームスとウィーン楽友協会に想いを寄せて

    2020年1月5日と6日、ゴールドの色彩もまばゆいウィーン楽友協会大ホールで、音楽の都ウィーンの演奏史を映し出す豪華な内容のコンサートが開催されました。ちなみにこの建物/ホールは、ムジークフェライン=音楽協会と言う名で、クラシック音楽ファンのみならず、ウィーンを訪れる多くの人に親しまれています。

    楽友協会開館150周年

    昨年1月のコンサートは、楽友協会開館150周年記念公演と銘うたれていました。
    ステージに登場したのは、伝統と格式を誇るウィーン・フィルハーモニー管弦楽団。タクトを執ったのは、ロシア出身の名匠でウィーンでも人気のセミヨン・ビシュコフ。ヴァイオリンの女王アンネ=ゾフィー・ムター、それにオペラ界のスター、テノールのピョートル・ベチャワが華を添え、さらにウィーン楽友協会とともに歩んできたジングフェライン=ウィーン楽友協会合唱団も出演しました。

    これらファン憧れのトップアーティストが、ベートーヴェンの「エグモント」序曲、ハイドンのオラトリオ「天地創造」の合唱曲、J.S.バッハのヴァイオリン協奏曲ホ長調の第2楽章、モーツァルトの歌劇「後宮からの誘拐」のアリア、合唱に編曲されたシューベルトの歌曲、それに「運命」の愛称で名高いベートーヴェンの交響曲第5番を披露したのです。このプログラムは、1870年1月6日にウィーン楽友協会大ホールで行われたオープニング・コンサートの内容を再現したものでした。
    プログラムに、ウィーン音楽界の顔だったヨハネス・ブラームス(1833~1897)の名前がなくて寂しい気もしますが、1870年1月、ブラームスは36歳。もちろんすでに作曲家、ピアニスト、合唱団の指揮者としてウィーンではとても愛されていました。ドイツ、ハンブルク出身のブラームスは1862年秋、29歳のときにウィーンを訪れ、以来、この街の音楽家、ファンと深い絆で結ばれていました。けれども1870年1月のコンサートでは、雅なバロック音楽や素晴しいウィーン古典派の調べに立ち返り、さあここから新しい歴史を創りましょう、という芸術的な指針が明らかにされたのです。

    バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトの楽の音をこよなく愛した30歳台後半のブラームスも、そんなウィーン楽友協会オープニング・コンサートの選曲に微笑み、大きな拍手を贈ったことでしょう。

    20世紀に入ってからブラームスの名がついた小ホール

    大ホール開場から約2週間後の1870年1月19日に、併設の小ホールも開場します。最初にピアノを弾いたのは、ロベルト・シューマン(1810~1856)の妻で、19世紀中葉を代表するピアニスト、クララ・シューマン(1819~1896)でした。クララはブラームス芸術最大の理解者でもあります。ロベルト&クララ・シューマン夫妻が最初にブラームスに喝采を贈ったのは1853年、ところはライン河畔のデュッセルドルフ。ブラームスが20歳の年です。シューマン夫妻はブラームスの情熱的なピアノの演奏に感銘を受け、ロベルトは「新しい道」と題した評論も書きました。クララも金髪の青年ブラームスの音楽と演奏姿に魅了されたようです。
    ブラームスは曲が出来上がると、14歳年上のクララの前でピアノを弾き、意見を求めることが多く、また一緒に連弾をすることも度々ありました。二人は崇高な音楽芸術を仲立ちに、ロマンティックな大人の友情を育んでいました。

    1870年1月19日、ウィーン楽友協会小ホールの開場を寿ぐクララ・シューマンのピアノ・リサイタル。開演を彩ったのは、その14年前に天に召された夫ロベルトの作品ではなく、ブラームス若き日の肖像たるホルン三重奏曲作品40でした。クララはその日、ブラームス、そして亡夫ロベルト・シューマンの作品を何曲も弾いています。 

    ところで「小ホール」という表記に、違和感を持つ方もいらっしゃるかも知れません。音楽ファンにとっては、もうずっと前から室内楽の殿堂たるウィーン楽友協会<ブラームスザール>です。少々やっかいなのですが、ブラームスザールと正式に命名されたのは1937年のことです。しかもその1937年は、楽友協会創立125年の年と記されています。

    大小のホールがオープンしたのは1870年1月ですから、計算が合いません。いえ、これで合っているのです。実はウィーン楽友協会は、ベートーヴェン(1770~1827)が交響曲第7番を書き終わった頃、1812年に創立されました。発起人のひとりにベートーヴェンの歌劇「フィデリオ」の最初の台本を書いたヨーゼフ・ゾンライトナーという偉人がいます。ゾンライトナー、宮廷劇場秘書官が本職でした。 

    いま、楽友協会はホールの名前ですが、もともとは演奏会を企画する音楽機関として歩み始めたのです。演奏団体にして鑑賞団体でもありました。教育や啓蒙も重要なミッションでした。具体的には、音楽院の設立、古今の楽譜や文献を収集・管理するアルヒーフの立ち上げにも関与します。
    しかもそうした活動を推進するメンバーの主体は、プロ級の腕前を持ちながらも演奏家を職業としなかった、いわゆるディレッタントたち。ゆえに Musikfreundeムジークフロインデ「楽友」協会なのです。

    芸術、ことにパフォーミングアーツ(再現芸術)を愛してやまない彼らは、王宮舞踏会場レドゥーテンザールやスペイン式馬術学校を借り、オーケストラと声楽が織りなす壮大なバロック音楽を演奏します。
    自前のホールをという機運が高まり、1820年代に、ウィーンの象徴シュテファン大聖堂や歴史あるペータース教会からもそう遠くないトゥーフラウベン地区に建つ<ツム・ローテン・イーゲル>(赤い針ねずみ館)という名の建物を借り、改修を重ねます。結果1830年頃に座席数約700の自前のホールが完成します。楽友協会旧ホールです。このホールは1870年1月に、いまのウィーン楽友協会が建つまで使われました。その頃の文献をみますと「旧会館」「新会館」という記述があり、興味を誘います。 

    1860年代の中葉以降ウィーンを拠点とするようになったブラームスは、このウィーン楽友協会ホール「旧会館」を知る作曲家でもあったのです。「旧会館」隣接のホテル・レストラン「赤いはりねずみ館」の常連でした。1870年以降「新会館」に足繁く通い、出演するようになってからも、ブラームスはお気に入りの「赤いはりねずみ館」で食事を楽しむことが多く、昼食はほぼ毎日そちらで──そんな人間味あふれるエピソードも伝えられています。

    名誉ある音楽監督に就任!

    ウィーンの名士となったブラームスは1872年、楽友協会の名誉あるポスト、コンツェルトディレクトゥアに就任します。直訳すれば演奏会監督。耳慣れないタイトルですが、これは音楽監督または首席指揮者に相当します。協会の支配人、事務総長ではありません。

    1872/73年、1873/74年、1874/75年の3シーズン、ブラームスはウィーン楽友協会のコンツェルトデイレクトア、つまり音楽監督/首席指揮者として、楽友協会管弦楽団と合唱団を指揮し、ピアノを弾きます。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、メンデルスゾーンという「クラシック作品」、ブラームスの自作、ブラームスの友人の作品、当時の現代音楽が主なレパートリーでした。
    ただ、時々混同されてしまうのですが、ブラームスは、このホールで定期公演を行うようになったウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督/首席指揮者に就任したわけではありません。しかしブラームスはウィーン・フィルとも深い絆で結ばれていました。 

    ウィーン楽友協会の名誉ある音楽監督ポストに招かれた頃、ブラームスは、ハイドン研究の泰斗(たいと)で楽友協会アルヒーフ(資料室長)のフェルディナント・ポール博士から、当時はハイドンの作品とされていた聖歌の楽譜を見せてもらい、芸術的な霊感を受けます。 

    交響曲の創作を視野に入れていたブラームスは、この聖歌を主題に素敵なオーケストラ変奏曲を書きます。それが1873年の晩秋にブラームス自身の指揮によるウィーン・フィル定期で初演される「ハイドンの主題による変奏曲」です。

    1876年には懸案だった交響曲第1番を書き上げました。「最初の交響曲は友人の手によって小さな街で演奏されるのが望ましい」。この美しい言葉に導かれ、ハ短調からハ長調への劇的構成も素晴らしい交響曲第1番は、ドイツのカールスルーエ宮廷管弦楽団で初演されましたが、同年暮れには作曲者自身指揮の楽友協会管弦楽団によってウィーン初演も行なわれます。 

    ピアノ演奏、指揮で忙しかったブラームスは、交響曲に関しては、お気に入りの避暑地で作曲のスケッチを行ない、都会に戻ってから清書。冬に初演という美しいパターンがありました。避暑地とブラームスのお話は、また別に致しましょう。

    伸びやかな歌心と精妙な筆致をあわせもつ交響曲第2番ニ長調は1877年暮れ、味わい深い交響曲第3番ヘ長調は1883年暮れ、それぞれ楽友協会大ホールでのハンス・リヒター指揮ウィーン・フィル定期で初演されています。

    晩年のブラームスとウィーン世紀末

    そして1897年3月、病を患っていたブラームスが最後に聴いたのは、リヒター指揮ウィーン・フィルによる交響曲第4番(1885年マイニンゲンで初演)でした。「歓呼の喝采が楽章毎に貴賓ロジェ席のブラームスに贈られた」と報告されています。

    1897年4月3日土曜、ブラームスはカールス教会近くの自邸で天に召されます。奇しくもその日、世紀転換期を駆け抜けることになる画家のグスタフ・クリムト(1862~1918)が分離派宣言を行なっています。5月には、長編交響曲で人気の作曲家グスタフ・マーラー(1860~1911)がワーグナーの「ローエングリン」を指揮してウィーン宮廷歌劇場にデビューしています。音楽、美術、建築界に沸き起こった新たな潮流。ウィーンに世紀末芸術が咲き誇ろうとしていました。 

    楽友協会やカールス教会も近いレッセルパークの一角に、有名なブラームス像があります。晩年の姿を描いたその像は、ブラームスが「75歳の誕生日」を祝った1908年5月7日に制作されました。当初は別の場所に設置されていましたが、地下鉄工事に伴い、ブラームスが愛したウィーン楽友協会側に移設されました。

    ブラームスは今も楽友協会を見守っているのです。

    文:
    奥田佳道(音楽評論家)

    1962年東京生れ。ヴァイオリンを学ぶ。ドイツ文学、西洋音楽史を専攻。ウィーンに留学。多彩な執筆、講演活動のほか、NHK、日本テレビ、WOWOW、クラシカ・ジャパン、MUSIC BIRDの音楽番組に出演。現在NHKラジオ深夜便「クラシックの遺伝子」および日曜朝の「音楽の泉」に出演中。

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