Wörthersee Tourismus GmbH
/ Petra Nestelbacher
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1860年代中葉から天に召される1897年4月3日まで、音楽の都ウィーンを拠点に作曲と演奏の両輪に腕を揮(ふる)った19世紀ロマン派音楽の匠ヨハネス・ブラームス。緻密な音創りを身上としたこの偉人は、お気に入りの避暑地で音楽のスケッチを書く「夏の作曲家」でもありました。
1870年代前半には、伝統と格式を誇るウィーン楽友協会の監督に就任したブラームス(1833年5月7日ドイツ、ハンブルク出身)は、秋から陽春にかけての音楽シーズン中、ウィーンでのコンサート、ヨーロッパ各地への演奏旅行で多忙を極めていました。
楽友協会の執務室やカールス教会近くの自邸でも、もちろん作曲を行なっていますが、交響曲や協奏曲、規模の大きな室内楽の作曲は、時間に余裕のある夏休みに行うことが多かったのです。
風光明媚な湖畔や山間の避暑地で曲のスケッチを書く。それを住まいのあるウィーンや演奏旅行先で推敲し、清書する。ピアノでの試演を経て、晴れの場、たとえばウィーン楽友協会大ホールでのウィーン・フィルのコンサートで発表──という創作の大きな流れがありました。
ブラームスはドイツ南西部の温泉保養地バーデンバーデン、ヘッセン州の州都でフランクフルトからも遠くないヴィースバーデン、それにスイス、ベルンから30キロほどのトゥーン湖畔でも、友人との語らいを楽しみながら素敵な夏を過ごしていますが、オーストリアの避暑地にはまた格別の想いがありました。
まず、オーストリア南部に位置するケルンテン州の代表的な湖、ヴェルターゼー湖畔のリゾート、ペルチャッハ・アム・ヴェルターゼーです。1877年、1878年、1879年と三年連続でペルチャッハに滞在し、交響曲第2番ニ長調作品73、ピアノのための8つの小品作品76、ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品77、歌曲「雨の歌」(作品59-3)の調べが織り込まれていることから「雨の歌」の愛称をもつヴァイオリン・ソナタ第1番ト長調作品78、ピアノのための2つのラプソディ作品79を紡いでいます。
なおペルチャッハの「対岸」にあたるヴェルターゼー湖畔マイヤーニックには、後にグスタフ・マーラー(1860~1911)が、ややあって新ウィーン楽派の鬼才アルバン・ベルク(1885~1935)もやってきます。
ブラームスの避暑地。次に北シュタイヤマルク地方のミュルツツーシュラークを挙げましょう。ウィーンから南西へ85キロほどのミュルツツーシュラークは、1854年に開通した山岳鉄道ゼンメリング鉄道の拠点でもあります。
哀愁と情熱を帯びた交響曲第4番ホ短調作品98が書かれました。作曲の家はブラームス博物館として公開されています。「ブラームスは1884年と1885年夏、この家で交響曲第4番を作曲した」と記された銘板が2階窓枠の下に掲げられています。博物館は近年改修され、室内楽のコンサートやミニ音楽祭も開催されるようになりました。駅隣接の南部鉄道博物館とともに訪れたい場所です。
ブラームスが愛したオーストリアの避暑地。最後はフランツ・ヨーゼフ1世(1830~1916)とエリーザベト(1837~1898)の婚約の儀も執り行われた<皇帝の温泉保養地>バート・イッシュルです。街中を流れるトラウン川もシンボルとなるザルツカンマーグート地方の古都で、ブラームスの親友でもあったワルツ王ヨハン・シュトラウス2世(1825~1899)もここを愛しました。豊かなひげをたくわえたブラームスと口ひげも粋なヨハン・シュトラウス2世が仲良く並んでいる有名な写真は、1894年にバート・イッシュルで撮られたものです。最晩年の巨匠たちが愛した避暑地ということになりますね。
皇帝フランツ・ヨーゼフが別荘を構えた由緒ある温泉保養地です。夏はウィーン政財界、芸能界、医学スポーツ界の要人がみんなバート・イッシュルにいるともささやかれました。30歳台だったマーラー(前述)もブラームスに代表される音楽界の名士に逢うためにやってきています。ヨハン・シュトラウス2世の次の時代、いわゆるオペレッタ白銀の時代を担ったフランツ・レハール(1870~1948)は、バート・イッシュルで亡くなりました。
ミュルツツーシュラークもバート・イッシュルもさらにご紹介したいところですが、次の機会を待ちましょう。
今回の主役は、伸びやかで美しいブラームスの調べを育んだオーストリア南部ケルンテン州、ヴェルターゼー湖畔の景勝地ペルチャッハです。
湖のみならず、山の緑も美しいペルチャッハについて書かれた香(かぐわ)しい言葉をご紹介しましょう。ブラームスが、ウィーン音楽界きっての論客エドゥアルト・ハンスリック博士(1825~1904)に宛てた手紙に、次のようなくだりがあります。
「ヴェルターゼー湖畔には美しい旋律が飛び交っているので、あなたはそれを踏みつぶさないように、ときっと私におっしゃることでしょう。」
味わい深いハーモニーを愛でたブラームスならではの凝った言い回しです。「美しい旋律が飛び交っているので、それを踏みつぶさないようにしなければ(浮かんだ美しいメロディを大切に)」と自分に言い聞かせているのです。
ペルチャッハで満ち足りた日々を過ごしたブラームスは、ヴァイオリンが明るく豊かに響くニ長調の名曲を書きました。盟友のヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒム(1831~1907)のために書いたヴァイオリン協奏曲です。
ウィーン大学医学部の歴史的な外科医テオドール・ビルロート教授もペルチャッハ賛では負けませんでした。
「この曲は、ただただ碧い空、泉の揺らぎ、太陽のまぶしい輝き、涼しげな緑の木陰。ヴェルターゼー湖畔ペルチャッハとは、どんなに美しいところだろう。」
作曲や演奏にも長けた医学博士ビルロートが、ブラームスの交響曲第2番の楽譜を手にし、演奏を聴いた時の言葉とされています。
ちなみにブラームスの弦楽四重奏曲第1番ハ短調作品51の1、同第2番イ短調作品52の2はビルロートに捧げられています。
北ドイツ出身の外科医テオドール・ビルロートはベルリン、スイスのチューリヒの大学病院にも勤務しましたが、ブラームス同様、ウィーンと相愛になり、1867年前後からウィーン大学教授に就任。ブラームスとはしばしば演奏や音楽談義を楽しみ、イタリア旅行も一緒に行っています。大親友でした。
ウィーンのみならず、オーストリアの音楽界は、おおむね9月にシーズンが始まり、6月にシーズンの幕が下ります。
夏は音楽祭の季節ですね。
世界のファン憧れのザルツブルク音楽祭。ボーデン湖畔特設ステージでのスペクタクルなオペラも話題のブレゲンツ音楽祭。ウィーン近郊ニーダーエステライヒ州グラフェネック城のオープンエアステージ「ヴォルケントゥルム」(雲の塔)をメイン会場とするグラフェネック音楽祭。ウィーン郊外の温泉保養地バーデンのサマーアリーナで行われるオペレッタの祭典。ハンガリー国境と接するノイジードラーゼー湖のステージで開催される、やはりウィーン・オペレッタ、ミュージカルの祭典たるメルビッシュ湖上音楽祭。2015年まで名匠ニコラウス・アーノンクール(1929~2016)が芸術監督的な立場で活躍したオーストリア第2の都市グラーツと近郊のシュタインツ城でのシュティリアルテ音楽祭。南部ケルンテン地方のフィラッハと湖畔の小村オシアッハの修道院で開催されるカリンシア夏の音楽祭。陽春、晩秋にも開催されるホーエネムス/シュヴァルツェンベルクのシューベルティアーデ(シューベルト音楽祭)…。
オーストリアのフェスティヴァルは枚挙にいとまがありません。賛辞も尽きません。
ちなみにブレゲンツ音楽祭を支えるのはウィーン交響楽団。グラフェネック音楽祭のレジデント・オーケストラはニーダーエステライヒ州のトーンキュンストラー管弦楽団。このオーケストラの首席指揮者佐渡裕も開幕公演やここぞという場面を彩ります。バーデンやメルビッシュの音楽祭には、ウィーン・オペレッタの殿堂ウィーン・フォルクスオーパーのスター歌手も次々登場します。
文:
奥田佳道(音楽評論家)
1962年東京生れ。ヴァイオリンを学ぶ。ドイツ文学、西洋音楽史を専攻。ウィーンに留学。多彩な執筆、講演活動のほか、NHK、日本テレビ、WOWOW、クラシカ・ジャパン、MUSIC BIRDの音楽番組に出演。現在NHKラジオ深夜便「クラシックの遺伝子」および日曜朝の「音楽の泉」に出演中。
テーマトレイルのブラームスヴェークは、作曲家が夏の数か月を過ごした当時の漁村、ペルチャッハのモンテカルロプラッツ広場から始まります。 レオンシュタイン城と昔の城跡を通りすぎ、しばらく行くと当時の典型的な別荘建築が並ぶヴェルターゼー湖畔の別荘地が目に入ってきます。 丘のホーエグロリエットでは、ブラームスの音楽に耳を傾けながらヴェルターゼー湖を見渡してください。 半島を歩き、花の遊歩道を歩くと出発点に戻ります。 家族でも楽しめます。全長6 km / 所要時間1時間半
ハンブルク出身のブラームスは1862年秋、29歳のときにウィーンを訪れ、以来、この街の音楽家、ファンと深い絆で結ばれていました。楽友協会が開館した1870年1月にはブラームスは36歳。すでに作曲家、ピアニスト、合唱団の指揮者としてウィーンではとても愛されていました。