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    音楽の歴史: 音楽ファンが集う国、オーストリア

    旅は視野を広げる、とよく言われます。これは特に音楽家に当てはまります。モーツァルトやハイドンを見ればわかるでしょう。 ヴォルフガング・アマデウス・モツァルト、ヨーゼフ・ハイドン、フランツ・リストやグスタフ・マーラーらの作品は、彼らが旅をしていなかったら生まれ得なかったであろう事は、容易に想像がつきます。彼らはヨーロッパの大都会で、その作品によって聴衆の心を捉えただけでなく、街からも多くの作品のアイディアやインスピレーションを得るという恩恵を受けていたのです。

    毎年15万人もの人々がウィーン・フィルハーモニー・オーケストラのヨーロッパ野外コンサートを聞くために集まりますが、その聴衆はヨーロッパ大陸と同様に多彩です。この日シェーンブルン宮殿の敷地は、世界的に有名な作曲家の作品を聞くために集まったウィーンの観光客、地元市民や音楽愛好家などの人々が集う出会いの場と変貌します。ここで演奏される曲を創作した音楽の著名人の中には、もちろんオーストリアが誇るモーツァルトハイドン、リストやマーラーが含まれていますが、彼らもまたこのコンサートに集まった様々な民族が混じった聴衆を前に、ホッとしていることでしょう。なぜなら、彼らも旅空で触れた異文化の中で、彼ら独自の音楽スタイルを創り上げていったのですから。
     
    ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが家族と共に、その当時まさに「ヨーロッパ大陸巡遊旅行」と呼ぶにふさわしい大旅行に旅立ったのは、彼が6歳の時でした。モーツァルトは、パリとロンドンに向かう途中、ドイツとベルギーで数え切らないほどの街を通りました。それらの街の聴衆は、神童モーツァルトのピアノニストとしての妙技に大喜びしました。
    今日、モーツァルトの作品が均質なもののような印象を与えているとしても、実はそれらは、文化が異なる様々な地域から得た影響や着想などの集合体なのです。例えば、イタリアを例にとってみると、モーツァルトは作品にイタリアのオペラの型通りの要素を取り入れたり、ヴェニスのオペラ脚本家ロレンツォ・ダ・ポンテと共同で作品を制作したりと、いかに多大影響を受けたかが明らかです。
     
    自身のルーツに強い絆を持ち続けたヨーゼフ・ハイドンでさえ、彼の音楽スタイルの継続的な創作活動には、旅とヨーロッパの国々との文化交流が不可欠でした。成人してからの人生のほとんどをエスターハージー侯爵家へ捧げたハイドンは、1791年に、英国に渡り、新たに交響楽団を組織して指揮するよう命を受けた彼は、すぐにそれを受諾しました。友人のモーツアルトが、英語さえ話せないのに行くのかと彼に質すと、ハイドンは「私の言語は、世界中で通じる!」と答えたそうです。
    英国で過ごした4年間は、ハイドンに創作的なひらめきを与え、彼の地で制作した作品は他の作曲家の一生分の仕事に匹敵するほどの量です。このオーストリア人がロンドンで作曲した完成作品は、少なくとも250以上にも及びます。それらの中には、彼のオペラ「哲学者の魂」と、最愛の作品である「太鼓連打」の愛称で知られる交響曲第103番を含む、いわゆるロンドン交響曲と呼ばれる12の作品が名を連ねています。外国で作曲したこれらの作品にこそ、彼のルーツ、ブルゲンランド州が最も顕著に表れ、ハーモニーやメロディーの一部は、英国人の耳には明らかに異国の響きに聞こえたことでしょう。彼はロンドン交響曲の中に、「ジプシー音階」と呼ばれる独特の音階を使った、ハンガリーやクロアチアの民謡を引用していたのです。
     
    ハイドンと同じように、現在のブルゲンランド州をそのルーツに持ち、強く結びついていたもう一人の作曲家が、自分を好んでLiszt Ferenczと称していたフランツ・リストです。彼は子供の時から自分の故郷の街ライディングで聞いた、ハンガリーのジプシーたち(ロマ人)が演奏する音楽に心酔していました。特に彼は、それぞれのジプシーが持っていた他の人が作曲した曲や、自身で作曲したメロディーの膨大なレパートリーの多さと、印刷された楽譜や作曲のルールに縛られない自由奔放な演奏や作品に感動しました。リストは12才で故郷を出ましたが、自身の音楽においては自分のルーツに忠実であり続けました。彼の音楽は彼の人生と同様に、とても多様で変化に富んでいます。その音楽は、ウィーン古典主義、19世紀パリの文化や政治精神、イタリア、ロシア、ドイツの音楽文化の影響や、明らかに彼がハンガリー音楽から受け継いだと思われる伝統を色濃く反映し、その結果、彼のユニークな作品は、今日でも独自のジャンルを固守しています。
     
    チェコ共和国の東部の地域モラヴィアのユダヤ人の家族に生まれた作曲家、グスタフ・マーラーもまた国際人でした。小さい頃から、モラヴィア民謡や軍楽隊の行進曲、近くの酒場で聞いた粗野な歌に至るまで、彼を取り巻くあらゆる音楽に影響されました。ウィーンでの勉強を終えて間もなく、マーラーは有能な指揮者という名声を得て、音楽監督としてスロベニア共和国の首都リュブリャナの他、カッセル、プラハ、ライプチヒ、ブダペスト、ハンブルクなど各地で活躍した後、ウィーンで宮廷の音楽監督として指名されました。
     
    今日でも、オーストリアの偉大な音楽家たちの影響を、至る所で活き活きと感じ取ることができます。そのため、この国は世界中の音楽ファンが集う場所となり、これら有名な作曲家たちの崇高な音楽をより深く理解するために、音楽祭で彼らの作品を鑑賞したり、かつて作曲家たちが暮らし、名曲を創作した場所を訪ねたりする人々の列が、決して途絶えることはありません。
     

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