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    • Empress Elisabeth in a ball gown with diamond-studded stars in her hair, oil on canvas Franz Xaver Winterhalter, 1865
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    時代を駆け抜けた皇妃エリザベート

    シシィの愛称で知られる皇妃エリザベート(1837~1898年)は、オーストリアで最も美しく、反抗的で悲劇的な皇妃でした。その生涯は暗い結末を迎えるという波瀾万丈の人生でしたが、今も人々に愛され続けています。

    ミュージカル『エリザベート』

    2022年、脚本・作詞ミヒャエル・クンツェ、作曲シルヴェスター・リーヴァイによるミュージカル『エリザベート』が、1992年にオペラ演出家として名高いハリー・クプファーの演出により、アン・デア・ウィーン劇場で初演されてから30年を迎えました。

    Theater an der Wien
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    世界各地で上演されたこのミュージカルは、終焉を迎えつつある古い考えの帝国時代にありながら、現代的な感性を持つエリザベート皇妃の謎に包まれた半生を描いた物語です。若くしてハプスブルク家に嫁いだ美貌の皇妃エリザベート。しかしそこには、伝統と格式を重んじる厳格な宮廷での生活が待っていました。軋轢の中で苦しみ様々な困難に遭遇した彼女は、自由を求めて放浪し、いつしか「トート(死)」の誘惑に惹かれていくようになります。

    ミュージカル『エリザベート』は、ドイツ語によるオリジナルミュージカルでは、史上最大のヒット作として知られ、日本では1996年からは宝塚歌劇団の公演が始まり、2000年からは東宝版も上演され、現在では日本におけるミュージカル演目のスタンダードになっています。ウィーンにおいては最近ではシェーンブルン宮殿の野外舞台でミュージカル『エリザベート』のコンサートが行われています。

    生い立ち。エリザベートは1837年12月24日、クリスマスイヴに生まれました。父親はバイエルン公マキシミリアン・ヨーゼフで、彼女はヴィッテルスバッハ公爵家の子孫にあたります。

    バイエルン王国の名門ヴィッテルスバッハ家は、神聖ローマ帝国の皇帝を2人も輩出した名門中の名門貴族。エリザベートは、ミュンヘンから30キロ程離れたスタンベルク湖のほとりに立つボッセンホーフェンの館で、自由で開放された教育を受けて育ちました。

    一目惚れ。1853年8月18日、15歳のエリザベート公女は従兄弟にあたるオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と婚約します。フランツ・ヨーゼフ皇帝が幼いエリザベートに求婚したのは、実は偶然の産物で、もともと姉であるヘレーネが皇后になるはずだったのです。しかし、フランツ・ヨーゼフはバート・イッシュルでエリザベートの姿を目にしたときから、彼の心はシシィに奪われてしまっていたのでした。その1年後、ミュンヘン出身のエリザベート・アマリー・ウージェニーはオーストリアの皇后となりました。

    婚約後の幸せなひと時。婚約後、皇帝とヴィッテルスバッハ家一行はザルツブルクへ向かうのですが、まず立ち寄ったのが、岩塩の町として知られる湖畔の緑美しい村、ハルシュタットでした。婚約後二人がはじめて散歩した村でもあり、道なき道をたどって村につくと、山麓に階段状に建ち並ぶ家並み、細く続く小路や階段など、美しい景色が広がります。

    ゴーサウゼ一湖では、二人は狩猟を楽しみました。フランツ・ヨーゼフは鉄砲の名手で、バート・イッシュル近郊には獲物か多いことを知っていました。特に湖の周辺の地理に詳しく、ダッハシュタインの峰々を映す鏡のようなゴーサウゼー湖に、フランツ・ヨーゼフはシシィを連れていったのです。狩猟と恋と、二人の幸せが自然の中でとけあった甘いひとときでした。

    ザルツブルクに到着すると、ここでフランツ・ヨーゼフはシシィたち一行を見送りました。フランツ・ヨーゼフはなんとか別れを遅らせようとしましたが、激務の待つ皇帝の休暇は終わりを告げています。内政も外交も待ってはくれません。ザルツブルクまでシシィといられたことの喜びをかみしめ、フランツ・ヨーゼフはシェーンブルン宮殿へと戻ったのでした。

    婚礼は翌年の1854年4月24日、ウィーンのアウグスティーナー教会で盛大に執り行われ、美しい皇妃はウィーン市民から熱烈な歓迎を受けたのでした。このアウグスティーナー教会の見どころは、女帝マリア・テレジアの四女、マリー・クリスティーネの大理石のモニュメントです。マリア・テレジアに一番可愛がられ、珍しく恋人と結婚をすることが許された皇女でした。愛し合う二人に相応しい教会といえるでしょう。

    婚礼後、二人はシェーンブルン宮殿で暮らします。革命政府軍占領時、ナポレオンが居住したあと放置されていたこの宮殿を、フランツ・ヨーゼフはエリザベートとの婚礼を機に改修しました。第2のロココとも呼べる華麗なスタイルの宮殿で、この美しい皇妃を迎え入れたのです。

    私は監獄の中で目を覚まし、手には手錠がかけられています。私の憧れはますます強くなっていきます。そして、自由!あなたは私から目をそらした!

    Kaiserin Elisabeth "Sisi"
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    Kaiserin Sisi

    宮廷での生活

    皇妃の意思に反して皇室の伝統は、若い女性には全く合いませんでした。彼女は、ヨーロッパで最も保守的とされるウィーン宮廷の礼儀作法に囚われていると感じていました。彼女は、自分に命令し、批判する義理の母ソフィーと折り合いをつけることができませんでした。皇室の結婚生活も、決して幸せなものではなかったと言われています。"私は監獄の中で目を覚ました... "と、結婚式からわずか2週間後に16歳の彼女は書いています。夫婦の性格は大きく異なっていました。几帳面なフランツ・ヨーゼフは国務にのみ専念し、シシィは自由を愛し、読書を楽しみ、神話に惹かれていました。

    憂鬱と自由への渇望。エリザベートは4人の子供をもうけました。1855年にソフィー、1856年にギーゼラ、1858年に皇太子ルドルフ、そして1868年に一番愛された娘のマリー・ヴァレリーが誕生しました。子供たちは皇室の習慣に従い、末娘のマリー以外は母親自身が育てることはありませんでした。シシィの長女がわずか2歳で亡くなると、皇后は落ち込み、母親として、妻として、そしてハプスブルク家を代表する一人としての生活を拒み、しだいに引きこもって暮らすようになりました。ストレスを発散させるため、王宮内にバスタブやスポーツ用つり革などを作らせました。運動器具のある宮殿は、世界中でもウィーンだけかも知れません。

    宮殿の外へ。彼女はしばしばウィーン近郊のラクセンブルクで過ごしました。そこには新鮮な空気、自然、そして遠出ができる愛馬がいました。いつしか、宮廷生活と大公妃ソフィーから逃げ出すように、旅に魅せられたシシィはヨーロッパ中を一人で旅するようになります。肺病を患っていた彼女は、医師から治療のためにマデイラ島とコルフ島に送られました。この気候と豊かな自然は、彼女に新しい力と自信を与えてくれました。そこでシシィは、自分の美しさに過剰なまでに気を配るようになったと言われます。

    ウィーン西側の町外れにある広大なラインツ動物公園内にあるヘルメスヴィラは、皇帝フランツ・ヨーゼフが彼女のために1886年に建てさせた離宮です。しかし、彼女をウィーンにとどめておくための役には立ちませんでした。

    Sisi Museum Vienna, Workroom
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    長い髪にくびれたウエスト

    美しさを追求する皇妃

    シシィは当時、最も美しい女性の一人とされていましたが、シシィは美しさを追求するために多くのことをしました。そして一日の多くの時間を容姿のために費やされました。専属美容師は、彼女の太くて長い髪をスタイリングし、ドレープをつけていましたが、皇后の怒りが爆発するのを避けるために、抜けた髪を隠さなければなりませんでした。3週間に一度、コニャックと卵で髪を洗い、髪が重くなるとリボンで束ねていました。そして海の塩とオリーブオイルを使った入浴が日課になっていました。食べる量は少なく、運動量は多く、お付きのものが追いつけないほどの早さで歩いていました。くびれたウェストを保つことは髪の毛の華麗さと同じくらい重要なことでした。コルセットの紐を締めるのにも何時間もかかりました。

    私には愛がなく、私にはワインがない。一方は悪を作り、他方は唾液を作る。

    Kaiserin Elisabeth "Sisi"
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    Kaiserin Sisi
    Souvenirs - Sisi and Franz Joseph I. busts
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    巧みな頭脳プレー

    皇帝のための恋人

    皇后にとってこの結婚はますます重荷となっていきました。フランツ・ヨーゼフはシシィを非常に愛していたと言われていますが、彼には浮気相手があり、そのうちの一つはシシィ自身が仕組んだものでした。女優のカタリーナ・シュラットとの交際により、皇后は自由への渇望を満たし、さらに旅をすることができるようになりました。家庭では姑からの圧迫を受けなくなり、子供の養育も自分で行うようにしました。彼女は4番目の子供であるマリー・ヴァレリーを最初から自分で世話をするようにしました。その当時シシィはオーストリア皇后であると同時に、ハンガリーの女王でもありました。

    人生とは無の恐ろしい妨害です。

    Kaiserin Elisabeth "Sisi"
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    Kaiserin Sisi

    喪服の時代。息子のルドルフの自殺は、エリザベートにとって無への転機でした。1889年1月30日、皇太子ルドルフはマイヤーリングの狩りの館で自殺を遂げたのです。その理由は何も語られず、シシィは無力感と惨めさに苛まれました。シシィの娘ヴァレリーは、日記に「ママはルドルフの死をうらやみ、昼も夜もルドルフを恋しがっていた」と書いています。

    オーストリア皇太子と男爵令嬢マリー・ヴェツェラの心中事件は当時、ヨーロッパのみならず世界中に衝撃を与えるショッキングな出来事でした。後に「うたかたの恋」として人々に語り継がれ、悲劇の舞台となったこの狩りの館は、皇帝の命によりネオゴシック様式のカルメル派修道院に建て替えられました。この事件以降、エリザベートは黒の衣装しか身に付けなくなります。皇妃はその10年後の1898年に暗殺されるまで、破壊的な落ち着きのなさに駆られ、鬱屈した気持ちで外国を転々としていました。

    皇妃にかかる運命の流れ

    Imperial Carriage Museum Vienna
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    鑢が心臓に

    皇妃暗殺

    "いったい何が起こったのか?" がシシィの最後の言葉でした。暗殺されたことに驚いたのでしょう。1898年9月10日、イタリアのアナキスト、ルイジ・ルケーニがジュネーブで彼女をヤスリのような鋭い刃物で刺した時のことです。シシィは転んでも立ち直り、侍女と共にモントルーに戻る船に乗り込みました。彼女はそのわずか2時間後に死亡しました。ルケーニは元々イタリアの王ウンベルト1世の暗殺を狙っていたのですが、王に会いに行くことができなかったので、「誰かを殺してみたいが、よほど有名な人物でなければならない」と思っていたところ、シシィがちょうどそこにいたので思い立ったのです。計画というよりは偶然のなにものでもないむごい暗殺事件でした。

    皇妃の知られざる面

    シシィの足跡を辿ってウィーンへ

    • シェーンブルン宮殿
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    • At the court, Sisi Museum
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    • Hermes Villa in the Lainz Game Reserve
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    • A great view of the Vienna Volksgarten, a public garden
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    • Franz-Joseph-Vault in Vienna / Capuchins' Crypt
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    • Confectionery Demel
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    • Hofmobiliendepot
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    • Sisi Chapel am Himmel in Vienna / Sisi Chapel - Am Himmel
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    Schmitten from above / Schmittenhöhe
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    ザルツブルク州

    シシィお気に入りの場所

    シシィは夏休みをバート・イッシュルで過ごすことを楽しみにしていましたし、ザルツブルクの街も何度も訪れていました。中央駅や「エリザベート・フォアシュタット」と呼ばれる地区の近くには、現在も皇后を記念した大理石の像が設置されています。ツェル・アム・ゼー近くのシュミッテンヘーエにあるエリザベート礼拝堂も、標高2,000メートルの山を徒歩で登った皇后への敬意を表したものです。テネンガウにあるツヴィーゼルアルムヒュッテは、ゴーザウゼーやダッハシュタインを見渡せる場所で、シシィには特に人気のある場所で、彼女はここで夜を過ごすこともありました(夏期は毎週木曜にツヴィーゼルアルムヒュッテを巡るシシィツアーがアナベルクのドナーコーゲルバーンから出ています)。バート・イッシュルからほど近い場所には、皇妃のお気に入りの場所であるポストアルムがあります。現在では、彼女を偲んでチャペルを訪れることができます。

    Sisi in the film, the biography of Romy Schneider, Hofmobiliendepot (Imperial Furniture Museum) / Hofmobiliendepot (Imperial Furniture Museum)
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    シシィの生活を撮影

    「シシィ」役のロミー・シュナイダー

    ロミー・シュナイダーは、1950年代に『シシィ』三部作の若い皇妃として演じ世界的に有名になりました。この作品では、史実性をあまり重視せず、皇妃を甲高い声を持つ天真爛漫で反抗的な少女に見立て、「フランツル」を崇拝するシシィを描きました。このようなスタイルは、調和や理想的な世界への憧れが強かった戦後の典型的なスタイルでした。映画版以降、皇妃の名前もSissiと綴られるようになりました(ドイツ語ではSisiと綴るものもあればSissiと書く場合があります)。『シシィ』はロミー・シュナイダーの人生における役と考えられていました。彼女がそこから解放されようと努力したにもかかわらず、43歳の若さで亡くなるまで、世間は彼女を皇妃としての役と結びつけていました。

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      ハプスブルク家の足跡を訪ねて
          Hofburg - Imperial Palace
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