
『豊臣期大坂図屏風』国際視察交流会2025 in エッゲンベルク宮殿
2000年代の初めにグラーツのエッゲンベルク宮殿で“再発見”された『豊臣期大坂図屏風』は、大坂夏の陣によって失われた豊臣時代の大坂城と城下町の研究に重要な手がかりをもたらしました。
それから約20年後の2025年10月2日、日本の関係者2名がエッゲンベルク宮殿を訪問し、本屏風と初めて対面。研究のきっかけを作ったバルバラ・カイザー博士とトークセッションをおこないました。ここでは1時間半に及んだ本トークセッションの全文をご紹介します。なお質問はオーストリア大使館観光部、および本イベントを取材した記者の皆様によるものです。また一部修正加筆および順序の入れ替えを行っています。
登壇者(左から)
バルバラ・カイザー博士(エッゲンベルク宮殿):『豊臣期大坂図屏風』を見出した、本屏風研究の第一人者。
長谷洋一教授(関西大学文学部):関西大学なにわ・大阪文化遺産学研究センター(当時)において、美術史の専門家として本屏風研究に従事。
峰覚雄住職(滋賀県 竹生島宝厳寺):本屏風の発見によって、宝厳寺に伝わる唐門が豊臣大坂城唯一の建築遺構「極楽橋」であることが確認された。
Q. 『豊臣期大坂図屏風』は、いつエッゲンベルク宮殿に来たのですか?
カイザー:難しい問題です。エッゲンベルク家の購入目録が残っていないので、いつ頃来たのかというのは分かっていません。ですが、1650年から1700年の間だと考えられます。おそらく1650年に近い頃だろうと思います。
Q. なぜ1650年頃とわかるのですか?
カイザー:この屏風が記載されている最初の目録は1700年の直後のものですが、「“古い”インド風のスペイン衝立」と書かれているのです。したがって、その時点ですでに長い間所有されていたことがわかります。
もともと屏風はここエッゲンベルク宮殿ではなく、エッゲンベルク家が保有していた市内の邸宅にありました。その頃はまだ分解されておらず本来の形のままで、最も重要な謁見室、つまり最も格式高い応接空間に、衝立として置かれていました。
その後まもなく、エッゲンベルク家は男系の血筋が絶えました、最後の侯爵が亡くなった後も、この屏風は非常に貴重だったため、他の多くの品のように処分されることなく、市内の邸宅に保管されていたのです。
エッゲンベルク家の男系が途絶えたあとも、女系はもう一世代長く生きました。その最後のエッゲンベルク侯爵夫人が、1755年前後にエッゲンベルク宮殿の部屋を改装したのですが、その際に貴重な東アジアのコレクションの一部がエッゲンベルク宮殿に運ばれました。『豊臣期大坂図屏風』はそのときに1枚ずつのパネルに分解され、壁の装飾の一部となりました。
Q. 当時、つまり17~18世紀のオーストリアの人たちは、日本の美術品にどのような印象をもっていたのでしょうか?
カイザー:非常に感銘を受けたに違いありません。特に17世紀という初期の時代、つまりこの屏風がまだ市内の邸宅にあった頃には、こうした作品は非常に珍しいものでした。なぜならこの時期、つまり1630年代に日本が鎖国する前、徳川幕府初期には、日本の屏風がヨーロッパに渡ることはほとんどなかったからです。ヨーロッパではこの時期の屏風は稀少で、エッゲンベルク家の『豊臣期大坂図屏風』が現存する唯一の例であり、だからこそ貴重なのです。
Q. 当時、日本に対する憧れはあったのでしょうか?
カイザー:それはあまり……。がっかりさせてしまうかもしれませんが、当時の人々は美術品が日本製なのか、中国製なのか、インド製なのか、朝鮮製なのかを理解していませんでした。それらを区別することができなかったのです。
ですから、ここではすべて「インド風(インディアニッシュ)」と呼ばれています。というのも、美術品はインド経由の海路で運ばれてきたからです。つまり、人々は美術品を特別な宝物、異国的で奇妙な美しさをもつものと認識していました。しかし、どの国から来たのか、どんな価値を持つのかについては理解していなかったのです。
長谷:それは、ヨーロッパでの「東洋趣味」の流行にあると思います。17世紀に入ると、ヨーロッパ各国では、オランダなどを介して日本や中国、インドとの交易が盛んになります。そうした交易品をもとにヨーロッパの貴族たちが抱いた東洋への憧れやイメージがヨーロッパでデザインされていきます。デザインの元になった交易品がインドなのか中国なのか日本なのかは厳密には定かではありませんが、東洋への憧れやイメージをデザインした家具や陶磁器などの美術品がヨーロッパに広まったと私は考えています。
Q. 当時の東洋趣味はインドから来たもので、皆がそれをインドのものだと思っていた、ということですか?
カイザー: それは時代の経過とともに変化していきます。本当の意味で、ある特定の国の芸術作品として認識し、評価されるようになるのは、ヨーロッパでは19世紀後半、明治時代のころからです。その時期にようやく理解と知識が伴うようになります。
しかし17世紀にはこうした美術品は極めて珍しく、18世紀になると流行の対象になりました。それでもそれが何であるのか、どこから来たのかはわからないままでした。それでも人々はそれらを好み、愛していたのです。17世紀のうちは本当にごく珍しいものでした。
Q. 当時、屏風がヨーロッパに渡来するというのはよくあることだったのですか?
長谷:日本とヨーロッパの貿易というのは、まず南蛮船といわれるポルトガル、スペインからの船が兵庫や堺に来航し、日本でオーダーした珍しい製品をヨーロッパに持っていきました。南蛮船が日本にとどまるのはわずか2週間ほどで、その後、中国で焼き物、インドでスパイスなどを調達するわけですね。
江戸時代に入ると、日本と関わる西洋は、オランダ一色になります。その時代は、長崎・出島のオランダ商館の商館長(カピタン)が江戸の将軍に毎年ご挨拶に行って、西洋からの珍品を献上したり、「今年も貿易の継続をよろしくお願いします」とお願いする江戸参府を行いました。
商館長一行が長崎から江戸まで行くときに、大坂と京都を通ります。そこで製品を注文するんですよね。そのあと一行は江戸へ向かい、江戸に1か月ほど滞在して将軍に挨拶して、OKをもらうと帰路につき、京都・大阪と通って長崎に戻るわけです。
南蛮貿易の場合は、2週間しか滞在期間がありませんでしたが、オランダ東インド会社の長崎・出島からの江戸参府は、大坂・京都で注文してから、江戸で挨拶し、また大坂・京都に戻って製品を受け取るまで、約3か月の時間の余裕があります。それは商館長らの日記から分かっています。3か月もあるということは、『豊臣期大坂図屏風』のような大きな屏風を制作する時間が十分にあったのです。よって、私はこの屏風の制作年代が、オランダ東インド会社による貿易が行われていた1650年前後と考えております。
カイザー:それに異論はありません。ただ、オランダ人の同僚がオランダ東インド会社の貨物目録を詳細に調べたところ、ヨーロッパへ送られた最後の屏風は1645年に日本を出発しており、その後は長いあいだ屏風がヨーロッパに運ばれることはなかったと判明しました。というのも、屏風はヨーロッパではあまり売れず、扱いにくい貨物だったのです。船の中で場所を取り、水や虫に弱く、到着時には状態が悪かったためです。ですから同僚は「1645年が一つの区切りの目安であり、それ以前に作られたもののはずだ」と述べています。つまり、制作時期と考えられる期間はごく限られた数年に過ぎず、私たちは17世紀の半ば頃と考えています。
長谷:1644年に、オランダ東インド会社バタヴィア総督のアントニオ・ファン・ディーメンが、当時の長崎商館長に手紙を出しています。その内容は「今まで日本から送られてきた屏風は、オランダ東インド会社にとってまったく満足できるものではない、オランダで人気のないことは明らか」というものでした。だから「もっと珍しく、美しい屏風を日本に求める。いくら高くてもかまわない。金箔や風景画など、日本で可能な限りの材質とモチーフで制作された屏風を、年1回の注文のチャンスにあなたは注文すべきだ」と。その史料から言って、この屏風が1650年ごろにヨーロッパに来ていても、つまり制作後すぐにオランダへ持ってこられたと考えても、私は全然不思議ではないと考えております。
カイザー:ええ、その話は合致します。彼らは実際にそれを購入したと思います。金が多く使われているものは、国際的に魅力的でしたから。
Q. 長谷教授は、この屏風はおよそ1650年ごろに到着したのではないかと推測しています。またカイザー博士も、この屏風は1650年から1700年の間に来たのではないかと推測しています。この点においてはお考えは一致であることに間違いないでしょうか?
カイザー:第2代のエッゲンベルク侯の遺産目録があります。それは1649年のものですが、まだ屏風は記載されていません。その後長い間は記録がありません。そして1700年頃にはすでに“古い”ものとして記載されています。これが屏風が1649年以前にはエッゲンベルク家に存在していなかった証拠のひとつです。ただし、この屏風がヨーロッパにどのくらい前からあったかはわかりません。オランダ東インド会社を通じて来たはずですが、エッゲンベルク家がいつ購入したかは、当時の請求書が残っていないため正確にはわかりません。しかし、概ねこの時期で、私たちの推測は非常に整合していると言えます。
長谷:屏風は描かれている主題の時代と、制作された時代を、別々に考えないといけないと思うんです。簡単な例で言うと、源氏物語が描かれた屏風を見て、これは平安時代に作られたとは誰も思わないですよね。私が1650年代と見ている理由には、この金雲の盛り上げの彩色と、あとこの屏風は京都の『洛中洛外図』とよく比べられるんですけども、描かれた対象が非常にわかりやすく大きいという点があります。対象物を全部描くというよりは、1つ1つを大きく描いて、対象物がどこの何かを分かりやすくするというのが、1650年以降の『洛中洛外図』を含めた都市図の屏風の大きな傾向ですので、この屏風はその中に当てはまるだろうと思います。
また、金箔をいっぱい使って豪華に、なおかつ新しいモチーフを取り上げていることですね。1610年頃にヨーロッパで都市の景観図が流行るのですが、残念なことに、アジアやオリエントの景観図は1枚もないんです。そういうことを、少なくともオランダ東インド会社は知っていたと思うんですよ。だから、「新しい屏風を持ってこい」と命じたのでしょう。それで私は1650年くらいかと推察しています。
もうちょっと言うと、この屏風のクライアントは誰か、という話があります。徳川家の時代に豊臣期の時代を描く、ということは問題になりえますよね。少なくともそんな危なっかしい、あとで摘発されるような屏風を日本人が注文するとは、私は思えないんです。
Q. 当時の人々は、なぜ金やこのような貴重なものに興味を持ったのでしょうか?
カイザー:まず美しいこと、そして国際性、富、重要性、開かれた世界観、教育や教養の象徴であったからです。異国の品や外国の物は人々を魅了します。それによって、自分が現地に行ったことがなくても、世界に通じていることを示すことができるのです。異国の品々について大して理解していなくても、珍しいものは人を惹きつけます。そして、これらの品々は本当に息を呑むほど美しかったのです。
Q. エッゲンベルク宮殿では位の高い客人ほど奥の客間に通されたため、奥の方にある屏風の部屋は本当に大切な客人しか入れなかったと聞きました。この宮殿にはマリア・テレジアが来ていますが、彼女がこの屏風を見た可能性はありますか?
カイザー:ほぼ確実に見たと思います。屏風の部屋に入ることは、最高位の来賓にしか許されていなかったものです。1765年にマリア・テレジア一行が1週間エッゲンベルクに滞在しました。そのとき、彼女は間違いなく屏風を見たでしょう。彼女自身も異国の品々を収集していました。その時代はまさに異国情緒が大流行していました。ですから、彼女はこの屏風も陶磁器の間も見たと、私は確信しています。
(写真は3つの東洋美術の部屋:陶磁器の間、絹の間、屏風の間)
Q. 屏風はオリジナルでしょうか?付け加えたり修復されたりした可能性はあるのでしょうか?
カイザー:パネルそのものはオリジナルですが、この部屋全体を構成する壁の残りの部分は、銅版画をもとに描かれたヨーロッパの絵画です。それは当時すでに流行していた「シノワズリ」と呼ばれるスタイルで、オリジナルの屏風の周囲を囲んでいます。しかし、屏風のパネルそのものには手が加えられていません。それどころか今もオリジナルの木枠に張られたままで、その木枠も現存しています。欠けているのは屏風全体を囲むフレームだけで、骨組みや格子構造はすべてオリジナルのままです。
Q. なぜ屏風を分解してしまったのですか?
カイザー:それが彼らの趣味に合っていたからです。これはいわゆる非常に植民地主義的な考え方の一例で、バロック時代のヨーロッパの美意識として、他国の美術作品をヨーロッパの趣味に合わせてアレンジするというやり方です。単純に、そうすることで彼らの好みに合ったのです。
このような例は非常に多く、紙のミニチュアや漆製品、陶磁器などを使った東アジア風の部屋はたくさんありますが、それらはヨーロッパ的な配置・配列にされており、それが当時の美意識でした。だからこの屏風も分解されたのです。
ただし分解される前は100年ほどはオリジナルの形で存在しており、18世紀になってヨーロッパ的な美意識で配置・配列することが流行した時期に分解されました。
長谷:これは八曲一隻という8枚パネル1組の屏風で、高さが170cmあります。私も元は博物館の学芸員でしたけれども、大きな屏風というのはものすごく重くて扱いにくいんです。また、パネルのつなぎ目のところが紙製で、非常にデリケートですので、バサバサッと広げると蝶番がバラッと取れて、分割状態になるということがあるんですよね。東京国立博物館に狩野永徳の八曲一隻の『檜図屏風』という、ほぼこれと似たサイズの屏風があるんですけども、非常に取り扱いが難しいので、結局四曲一双という4枚パネル1組に仕立て直して、最近ようやく展示されるようになりました。という事例もあるくらいですから、おそらく屏風のままでは扱いにくかったんだろうと思いますね。
Q. 2006年に関西大学に調査を依頼した経緯は?
カイザー:その前から何年も、私はこの屏風の年代や由来を明らかにしようと試みていましたが、分解されていたため、それぞれのパネルが一つの屏風を構成しているのかどうかも分かりませんでした。長年、分かっていることを写真にまとめて、さまざまな専門家や博物館に送りましたが、返答は一度もありませんでした。本当に大変でした。2000年以降、私が東京のドイツ日本学研究所からもらった回答には、「19世紀の観光芸術である」と書かれていました。それを読んで、「1704年からエッゲンベルク家に存在しているのに、19世紀の屏風であるはずがない」と腹が立ちました。しかし、その時は諦めました。
その後、大規模な修復プロジェクトが行われました。屏風の修復はシェーンブルン宮殿で行われ、日本人の修復技術者も参加していました。彼女たちはすぐに「これはもっと古いはずだ」と推測し、日本に写真を送って確認しました。そこで初めて「確かに17世紀、すなわち江戸時代のものかもしれない」という回答がありました。
その後さらに調査を進め、ケルンのフランツィスカ・エームケ博士にたどり着きました。彼女は丸一日、屏風の間で過ごし、「私の推測が正しければ、これは大発見だ。私はこれから日本に行くから、資料を持っていって聞いてみます」と言ってくれました。そしてエームケ博士が日本に行き、関西大学に相談しました。数週間後、関西大学から第1弾のグループがエッゲンベルク宮殿に来ました。それが経緯です。
Q. 日本製だと分かったのはいつですか?
カイザー:日本製であることは以前から分かっていたことでもあり、私の前任者もすでに日本製だと知っていました。不明だったのは、正確な年代とどの都市が描かれているのか、そしてそもそもひとつの絵画なのかどうかでした。それは日本からの協力を得て初めて分かりました。板が外され、修復されて再び組み合わされたときに、初めてそれがひとつの大きな絵画であることが分かりました。それは非常に圧倒される体験でした。
Q. 屏風の一報を関西大学で受けたのは、長谷教授だったそうですね?
長谷:エームケさんが関大に来られて、関大のドイツ人教授のビットカンプさんとお二人で私の研究室にこの屏風の写真を持ってこられたんです。当時、私は大学に就職して1、2年目で、まだ大学の状況もよくわからなかったんです。そんな私が個人で研究するには、この屏風にはいろんなテーマが描かれていますし、荷が大きすぎるなと思いました。
私は「なにわ・大阪文化遺産学研究センター」という、高橋先生がキャップをしている研究のプロジェクトの一番下っ端にいたので、「センターにお話をされてはいかがですか」と進言し、高橋先生が「ではセンターでこれを研究しましょう」と引き受けて研究が始まったという経緯になります。
Q. 屏風の写真を初めて見たときに、これはなんだと思われましたか
長谷:どこかの都市だと思ったんですけども、バラバラになっている屏風のパネルの写真のうち、最初に見た写真のパネルに二階建ての橋が描かれていたんです。「二階建ての橋……極楽橋やんか」と。そこで城がないかと探したら、城が描かれたパネルがあって、極楽橋のパネルと繋がったんです。極楽橋といっしょに描かれた城、ということは「このお城は大坂城だな」と。どんどん写真を見せていただくと、四天王寺、住吉の太鼓橋、堺の堀が描かれていて、「これ、大阪や」と思いました。
Q. 大発見だったと思うんですけど、見つけた時の率直な感想は?
長谷:見つけたというとおかしいけど、並べた時に大発見だとはさすがに思わなかったですね。これはちょっと私一人ごときで扱えるものではないと。
Q. プレッシャーですか?
長谷:プレッシャーがありましたしね。まだ入って1、2年目で大学にも慣れてなかったですし。そこでセンターの高橋先生に「こんな話があります」と言ったら、「そうか!」とか言ってくれて、後は高橋先生が一生懸命がんばって、いろんなことにつながっていきました。
Q. 高橋先生は喜んでおられましたか?
長谷:すごいとおっしゃってました。そのあとすぐエッゲンベルク宮殿に来て実物をご覧になっているはずです。
カイザー:狩野先生、高橋教授、薮田先生など、皆さん来られました。とても嬉しかったです。
Q. 峰住職がこの屏風の存在と、ご自身のお寺の唐門が描かれていることを知ったときのお気持ちを教えてください。
峰:私がこの連絡をいただいたのはずっと後のことで、突然、高橋先生をキャップとするセンターの皆さんから「調査をしたい」というお申し出がありました。「何の調査をされるんですか」と聞いたところ、「唐門の調査をしたい」ということで、「なぜそういうことになったんですか」と。そのとき、この屏風が見つかったという話を聞きました。
実は私どもの唐門は、修理に困っておりまして。どういうことか言うと、豊臣秀吉期の大坂城というのは分からないことがいっぱいでございます。特にこの唐門でありました極楽橋も幻の橋と言われるぐらいで、歴史の推移が分からないものでありましたので、修理をしたくても修理の方向性を決められず、着手できないという状態が長く続いておりました。
実は最近行った唐門の修理の前の修理は、昭和10年(1935年)、戦前のことでした。先生方はご存知ですが、当時、日本で文化財を修理するとき、調査をほとんどやらなかったのです。壊れているところを直すだけ、つまり保存のための修理が目的で、本来どういう仕様で制作されたのか?といったところまであまり目が向けられてこなかったようでもあったと思います。したがって、調査報告も何も残っておりません。漆は大変にひどい状態でしたし、彩色も今調査しなければ、本来の姿や移築の経緯が二度と分からなくなってしまうのでは?という危機感を私は感じておりました。
そんななかでしたので、高橋先生が「実はこういうことがあって調査をしたいんだ」とおっしゃったことが、私どもにとっては大きな転換になりました。なにわ・大阪文化遺産学研究センターは、豊臣期の大坂城の調査を徹底的にやっておられたんですよね。大坂城は、徳川時代になってほとんどが壊され埋められてしまっているので、痕跡がありません。私どもにとって、『豊臣期大坂図屏風』が、調査の一番の論拠にがなったのです。唐門の修理はほとんど不可能な状態にありましたが、この一枚の屏風から希望が生まれてきたと言えるのでないかと思います。
その当時は、カイザー先生に宝厳寺に来ていただいた時もそうだったんですが、漆が乳化と言いまして、紫外線で黒いところが真っ白になって、ひび割れして、そのひびに雨水が入って漆がところどころ真っ黒に剥がれていくような状態でしたし、彩色もどんどん落ちていまして、何の色なのかも見た目では分からない、このままでは復元できなくなるのではないかと危機的な状況の中で、この屏風が私どものお寺の国宝を救ってくださいました。
カイザー:(修復後の唐門の写真を見て)とても美しい色です。
峰:今回は調査が大変重要な目的の一つでしたので、この色も古い塗膜を一つ一つ調べ、それをもとにして色を復元しました。今回復元した色は、極楽橋から竹生島に移築した当時の色を取り戻す、ということを目標にしました。漆も、調査の中で450年前の漆の塗膜が出てまいりましたので、今回の漆もその同じ顔料を使った漆を使って修理をしました。今回の修理では、雨風で傷んでいるところは新しく、古いまま残せるところはそのまま残すようにいたしまして、昔の唐門、大坂城の遺構も残せるようにということで実施した次第であります。
彩色もそうなんですが、今回は、文書の中に描かれているいろんな顔料が何だろうか、という調査もしていただいて、ラピスラズリの粉がたくさん使われていたことも分かりました。また、屏風では背が高い縦長の建物に描かれているんですが、竹生島に移築したときに改築されていて、屋根が大きいわりには高さを縮めて建て直されていると、そういうこと今回の調査で判明しました。そして大坂城の現存する唯一の遺構だと、ほぼ確認されたということになったわけです。
Q. いつの時代の屏風かを知りたくて調査に出した結果、宝厳寺唐門が大坂城の唯一の遺構であることが確認されるという壮大な結果になりましたが、その結果を受けてカイザー先生のお気持ちは?
カイザー:まったく予想を超えるものでした。まさに素晴らしい偶然、人生が与えてくれる贈り物のようなものです。そして、このような作品が生き延びてきたことの素晴らしさだと思います。というのも、この時代のエッゲンベルク家の調度品はほとんど残っていないのに、この屏風は生き延びてきたのです。この長い旅、この長い年月を経て――本当に素晴らしいことでした。
さらに言えば、ここで初めて修復されたパネルを組み合わせて、この屏風が1枚の巨大な絵画であることを確認した瞬間、息を呑みました。本当に圧倒されました。
Q. エッゲンベルク宮殿に屏風が残り、滋賀県に極楽橋が残っていたという二つの奇跡で今回の交流が生まれたことについては、思われていますか?
カイザー:これは最も美しく、また最も有意義なプロジェクトのひとつです。多くのことを学べただけでなく、遠くにいる新しい友人をたくさん得ることができ、その友情は今日まで続いています。このプロジェクトを通して、本当に多くのことを学び、経験させてもらいました。芸術を通じた交流ほど素晴らしい理解の形はありません。多くの人々が感動を共有し、一緒に活動することができます。音楽プロジェクトもありましたし、芸術プロジェクトもありました。まさに運命からの贈り物のようなご縁に、本当に感謝しています。
Q. 屏風の話が来るもっと前から、唐門が豊臣期のものであるという話はあったと思います。今回の調査に修復が進んだということですが、もし屏風の話がなければ、修復は進まなかったんでしょうか?
峰:正直言って、なかなか進まなかったですね。唐門に関する古文書は2通あって、一つは慶長5年(1600年)に、京都の醍醐寺の義演さんというお坊さんが、その時秀吉さんの御廟を京都に造りましたので、そこに極楽橋を解体して門を造りましたという、日記のようなものが残ってるんです。それから慶長7年(1602年)に、その御廟にいらっしゃった梵舜さんというお坊さんが、今度は竹生島の方へそれを移築して唐門になったよ、と。残っている文書はその2つしかないので、はたして唐門が極楽橋だったかどうかに関してはいろんな説が生まれ、反対意見もあったなかで、私どもとしては、「竹生島に来ている唐門は、もしかしたら大坂城の唯一の遺構かもしれませんよ」程度しか言えなかった、というのが実際のところです。
ですから文化財としてもなかなか修理が……。言いにくいんですが、屋根の修理はやっているとはいえ、70数年も漆などに修理の手が入っていないというのはちょっと珍しいくらい長かったので、本当に危機的な状態だったというのは関西大学さんがよくご存知だと思います。よくそこまで放っとかれたなあ、という感じだったでしょうか。
長谷:いやいや(笑)。私も研究者の端くれですけども、資料があっても研究者というのはついつい自分の意見を言ってしまいますので、いろんな意見が出てくるんですよね。そうすると、まだ結論が決まってないということになって、現実的な修理がどんどんと遅れてくるんですよね。
昭和10年当時の修理というのは、確かにおっしゃる通り、壊れてるところをとりあえず直すものでしたが、戦後になると、どういう修理をするのか方針を立てるため、事前の調査に重点が置かれるようになります。すると、日本はかなり傷んでいる建造物が圧倒的に多いので、どうしても順番待ちになるんですよね。ましてや議論がなかなか進まない、となると、「決まるまで待とうか」ということで、どうしても遅れがちになるんです。我々はたまたまこの屏風を介して、顔料や構造などいろいろ調べさせていただきました。それで文化庁としても、これは修理が早急に必要なんだ、と判断する一つの根拠となったわけですね。
Q. 豊臣期大坂図屏風がエッゲンベルク宮殿で再発見されたことの類似例は、他にもありえますか?例えば、織田信長が安土城を描かせた『安土城図屏風』は、インド経由でバチカンの教皇にもたらされたという記録が残っていますが、現存しないので、安土城がどんな姿だったか分からない。だから安土城は今も復元できないそうです。『豊臣期大坂図屏風』のような話があれば、夢が広がると思うのですが。
カイザー:もっと時代の古い『安土城図屏風』の探索に関しては、日本で大規模な研究プロジェクトが行われたと思います。この屏風は最初の日本使節団と共にヨーロッパに渡ったものです。しかし、結局見つかりませんでした。おそらく破壊されたのでしょう。同じものは複数あったようで、ポルトガルに渡ったものが2つあり、そのうち1つは裏打ち(背面)の部分が残っています。しかし、いずれも完全には保存されていません。この『豊臣期大坂図屏風』だけが残っているのが奇跡です、残念ながら。明治時代以降、日本が開国した後には多くの屏風がヨーロッパに渡りました。しかし、日本が鎖国する前に渡ってきた屏風というのはごくわずかで、完全に残っているのは『豊臣期大坂図屏風』だけです。
Q. この屏風は、唐門の修復や豊臣大坂城の研究促進のきっかけになったので、日本にとっては大きな意味を持っていますが、オーストリアの人々にとって、この屏風はどういう存在でしょうか?
カイザー:それは他の人に聞いた方がいいでしょう。私は偏っていますから(笑)。私たちにとって、この屏風は非常に特別な宝物であり、ヨーロッパにとっても同じです。ここでも、未知で非常に重要な美術作品を毎日見つけられるわけではありません。この宝物を発見できたことは、私たちにとって名誉であり、責任でもあります。大きな責任であり、それに応えなければなりません。そして、できれば若い世代にもその責任を引き継いでほしいと思います。
Q.この屏風がオーストリアにあるということは、日本の方はよく知っていて観光にも来ます。しかしオーストリアの方は、この屏風がここにあるということは知っているんでしょうか?
カイザー:日本ほどではないと言わざるを得ません。そこは痛いところを突かれましたね(笑)。でもこの場にグラーツ市観光局のCEOもいますし、オーストリアでももっと知られる良い機会かもしれません。今ではかなり知られるようにはなっていますが、『豊臣期大坂図屏風』の重要性については日本の方がよく知っていると思います。もちろん研究者たち、学術コミュニティの中では多くの人が知っていますが、一般的な知名度は高くありません。まだ普及の余地があります。
Q. 先ほどカイザー博士も長谷教授も、この屏風の存在が奇跡だとおっしゃっていましたが、峰住職もそうお感じになりますか?
峰:竹生島へお参りにいらっしゃって、唐門を見学にいらっしゃる方が多いんです。特にエッゲンベルクの屏風の記事が日本全国に紹介されたんですが、それから唐門に対する観光の方も多ければ、そしてそれを調べたいとおっしゃる方も多いですね。
先ほどある記者さんから出ましたように、実はエッゲンベルク宮殿の屏風のことは大変日本で有名なんです。私どものお寺へいらっしゃる方も、「この前行ってきましたよ」なんていう方も結構多いんですよ。それだけ話題になっているのは、やはりこの屏風の力だと思います。このきっかけを大事にし、日本とオーストリアの方々の友好が深く深くなっていければ、私どもとしては何かのお役に立てたと喜ばしいことでございます。
また、こういうことによって文化財への関心が日本で広まることが、未来について考える中では希望となっております。大坂城というのは本当に不思議な豊臣家のお城、わからないことがいっぱいの未知のお城なんですが、謎の一つ一つが、こういうきっかけで解決されたり、発見が続いていく。そういうことが、将来の希望になるのではないでしょうか。
Q. 先ほど初めて屏風と対面したときのお気持ちをお聞かせください。
峰:実はいろんな方から「ご住職、まだ見てないんですか」とお叱りを受けていたので、「やっと会えた」という気持ちが一つあります。大阪城にある屏風のレプリカを見せていただいたことはありますが、新しく模造されてるものですから、大変新しく華やかだったんです。
でも現物を見ると、やはり相当の年数がたっていて、色が落ち着いていましたね。あの空間の中にポンとあっても、違和感がない。意外に「ああ、馴染んでるな」とビックリしました。私も地元で文化財の所有者として、さまざまな文化財と接する機会をいただいていて、絵画とかもよく拝見するんですが、違和感なく本当にうまく溶け込んでいたというのにびっくりしました。
長谷:中国風の絵画に囲まれているので違和感はあるけれど、落ち着いてるな、というのがちょっとありましたよね。
Q. エッゲンベルク宮殿にも溶け込んでるな、と?
長谷:そうですね。それは思いましたね。
峰:やっぱりここの美術になってるんですよね、ちゃんと。
カイザー:そういうふうに感じてくださって、とても嬉しいです。
Q. 先ほど峰住職から未来に向けたお話があったので、長谷教授とカイザー博士にもお聞きしたいです。屏風の研究開始から20年という年月が経ちました。今後の展望や期待を教えてください。
長谷:偶然いろんな奇縁でこの屏風が見つかって、グラーツと大阪との繋がりができましたけれども、この屏風に関してはまだまだ調べるべきことがたくさん残っています。私はできれば日本の若い学生たちに、ヨーロッパに流出している日本美術にもっと興味を持ってほしいんです。蒔絵、焼き物、屏風がオランダ東インド会社によって日本からヨーロッパ向けに主要商品として出されました。そのうち蒔絵と焼き物については、ある程度研究の成果の積み上げがあるんですが、屏風はないんですよ。
私は、『豊臣期大坂図屏風』は奇跡的に東インド会社を経由してこちらの方に来たという確信を持っていますので、ひょっとしたら他のヨーロッパの美術館にこれと同じような屏風が、例えば名古屋や他の都市を描いた屏風があるのではないかと。でもヨーロッパの各美術館でもそこまで把握はできてないので、若い人たちが具体的な美術作品によって東西交流を明らかにするという研究を、期待したいと思っております。
カイザー:長谷教授に同意します。もしかすると、この屏風が正確にいつここに来たのか、さらに詳しく突き止められるかもしれません。しかし、それ以上に重要なのは、若い日本の研究者たちがこの分野に引き続き関わり、私たちが連絡を維持し、新しい情報を得ることです。この屏風や類似の作品についての研究が続くこと、それが私たちの希望です。そして、こうした交流や関係が長く保たれることも、私たちの大きな願いです。