ベートーヴェン『交響曲第9番』初演から200周年
1824年5月7日金曜の夜、ウィーンの事実上の宮廷歌劇場だったケルントナートーア劇場は開演前から高揚感に包まれていた。あの、かのルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン氏の新作交響曲の初演。
のちに交響曲第9番ニ短調作品125「合唱付」(第9)と呼ばれる気宇壮大なシンフォニーのお披露目が近づいていた。時代も次代も切り拓いた鬼才ベートーヴェン、このとき53歳。
200年前の5月7日、他の演奏プログラムも名匠ベートーヴェンが手がけたばかりのオーケストラのための序曲、荘厳なミサ曲ということで、聴き手の期待は嫌が上にも高まっていたと思われる。
「どうも今度の交響曲は、これまでに見たことも聴いたこともない巨大な音楽らしい。交響曲に声楽が添えられているという話だ。しかもその歌詞は自由思想に基づくものらしい。大丈夫なのか。いったいどんな音楽なのか」。
絶対王政(支配権)の復活を掲げた宰相メッテルニヒの体制と呼応した監視や検閲が盛んな時代だったにもかかわらず、公演前から曲をめぐる噂が、ウィーンの裕福な市民、音楽愛好家の間で広がっていた。
第9初演という音楽史に燦然と光輝く「ライヴ」の前に、多くの作曲家、演奏家が行き来したケルントナートーア劇場の歩みを少し。
第9といえば、コーラス、歓喜の歌。歌ったことがあるという方もいらっしゃることだろう。歌ったことはなくても、あの調べを知らぬ者は、いない。
最終第4楽章に形を変えて織り込まれたのは、ドイツの文豪フリードリヒ・シラー(1759~1805)のAn die Freude「歓喜に寄す」。
このOdeオデー(頌歌)は、シラー自らライプツィヒで編集していた雑誌「タリーア」に初めて掲載された。1786年のことである。モーツァルトがウィーンでピアノ協奏曲第20番ニ短調、第23番イ長調、第24番ハ短調を書いた年だ。
その4年後の1790年、まだボンにいた19歳のベートーヴェンは「皇帝レオポルト2世の即位を祝うカンタータ」を書くのだが、その歌詞にStürzt nieder, Millionen「ひざまずけ、もろ人よ(いく百万の人々よ)」が出てきて、音楽好きを小躍りさせる。
シラーの「歓喜に寄す」は、その後も創造の地平を拓く若き日のベートーヴェンを鼓舞した。改訂を繰り返した歌劇「フィデリオ」の一節にもWer ein holdes Weib errungen「やさしい妻を手にした者は」とある。こちらも第9を彩る言葉だ。先のひざまずけ~は第4楽章第3節のコーラスに、やさしい妻~は第4楽章第2部の主部に現れる。
1808年暮れ、ベートーヴェンは前述のアン・デア・ウィーン劇場で、1824年の第9初演と並び称される公演を開催する。プログラムもすでに記したが、交響曲第5番、第6番「田園」、ピアノ協奏曲第4番を公開初演したライヴで、合唱幻想曲なる音楽的アイディア満載(過ぎる)曲も披露した。
合唱幻想曲は、ピアノ、独唱、合唱、オーケストラのための作品で、ベートーヴェンはここで第9の「歓喜の歌」に一脈通じる調べを紡ぐ。第9好きの方、ぜひ合唱幻想曲を。思わずほほ緩む調べが舞う。
もっとも1808年の合唱幻想曲初演は楽譜が体を成しておらず、またリハーサル不足も相まって、大失敗に終わったことが分かっている。ピアノを弾いたベートーヴェンは以降、公的な場でオーケストラと共演しなくなってしまうのだが、それはまた別の話。
ロンドンからの委嘱が契機となって
ややあって1817年、伝統と格式を誇ったロンドンのフィルハーモニック協会がベートーヴェン招聘を決定、あわせて2曲の交響曲を委嘱する。このロンドンからの委嘱が直接の契機となり、ベートーヴェンは交響曲第9番を書き始めるのだが、1818年以降、彼はピアノ・ソナタ第29番変ロ長調作品106「ハンマークラヴィーア」、ピアノ・ソナタ第31番変イ長調作品110を手がけ、そして何よりも、ピアノと作曲の愛弟子でもあったルドルフ大公のオルミュッツ(現チェコ第5の都市、モラヴィア地方のオロモウツ)大司教就任を寿ぐ大作ミサ・ソレムニスの創作が佳境を迎えようとしていた。結果としてミサ・ソレムニスは1820年3月のルドルフ大公の大司教即位式典に間に合わなかったが。
いずれにせよ、ロンドンから委嘱があったとはいえ、第9に専心出来る状況ではなかった。スケッチを書く、主題や断片を書き留める時間はあったものの、第9の全容が明らかになるのは少し先になる。
バーデン
創作が本格化するのは1823年のミサ・ソレムニス完成後だ。ベートーヴェンはウィーンそして近郊の温泉保養地バーデンで第9創作に勤しむ。ウィーンから南に26キロのバーデン。多くの芸術家が愛したバーデンは、私たち旅行者、音楽好きにとっても大切な街である。
国立歌劇場の斜め前から62番などの市電と変わりばんこに出発するBadner Bahn/Lokalbahn Wien-Badenバードナー・バーン/バーデン線で、行き止まりの終点Baden Josefsplatzヨーゼフスプラッツまで行けば、趣あるバーデン旧市街もベートーヴェンが第9を書いたラートハウスガッセ10番地のベートーヴェン・ハウスもヨハン・シュトラウス父とヨーゼフ・ランナーの像も目印となるクアパークも近い。
史実は別として、モーツァルトの「アヴェ・ヴェルム・コルプス」ゆかりの教区教会も訪ね、同教会の合唱長でもあったアントン・シュトルの銘板を眺めるのも音楽好きのたしなみといえる。
そう、楽都ウィーンの「奥座敷」バーデンはモーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、それにウィンナ・ワルツ、オペレッタの作曲家たちが愛した音楽の泉なのだ。温泉ばかりでなく、散策もカジノもオペレッタ劇場も大切だ。
嘆願書!
リハーサル
1824年4月18日、前の年にようやく完成したミサ・ソレムニスニ長調作品123がロシアのサンクト・ペテルブルクで全曲初演される。その数日後、ベートーヴェンは第9のパート譜の最終チェックを行なったとされる。5月2日、3日には最初のリハーサルが行われた。ウィーン楽友協会アルヒーフ(古文書資料館)所蔵の文献によれば、いきなり全体練習を行なったのではなく、オーケストラ、声楽のソリスト、コーラスごとにリハーサルが行われたようである。パート練習だ。リハーサルは都合5日間行なわれた。その間には男声ソリストの急な変更もあった。
慌ただしさは否めないが、とにもかくにも舞台は整った。1824年5月7日、ケルントナートーア劇場でのベートーヴェン・コンサート。曲目は以下の通り。
◆序曲「献堂式」ハ長調作品124
◆ミサ・ソレムニス ニ長調作品123からキリエ、クレド、アニュス・デイ
◆交響曲第9番ニ短調作品125「合唱付」
「献堂式」序曲は、現在のウィーン8区に建つヨーゼフシュタット劇場のオープニングのために1822年に創られたハ長調の音楽。祝典劇の序曲で、ファンファーレの調べもフーガの構築も素晴らしい。粋なオープナーだ。
4月にサンクト・ペテルブルクで初演されたばかりのミサ・ソレムニスも、抜粋での演奏とはいえ、ケルントナートーア劇場の客席を喜ばせたことだろう。
そして第9へ。
主な出演者を記す。
指揮 ウィーンの宮廷楽長ミヒャエル・ウムラウフ(1781~1842)
特別コンサートマスター イグナーツ・シュパンツィク(1776~1830)
※シュパンツィクはリヒノフスキー侯爵邸、ラズモフスキー公爵邸のお抱え奏者で、ベートーヴェンのライフワークだった弦楽四重奏曲をいくつも初演した名ヴァイオリニストにして作曲家の盟友。
ソプラノ ヘンリエッテ・ゾンターク(1806~1854) 18歳
※ソンタークは前年ケルントナートーア劇場でウェーバーの「オイリアンテ」初演に出演。10代だが、ロッシーニ歌いとしても知られていた。
アルト カロリーネ・ウンガー(1803~1877) 20歳
※モーツァルト、ロッシーニ、ドニゼッティのスペシャリスト。父ヨハン・カール・ウンガーは詩人でベートーヴェン、シューベルトの友人。
テノール アントン・ハイツィンガー(1796~1869) 28歳
※ハイツィンガーはウェーバーの「オイリアンテ」初演に出演。ウィーンのほかパリでも活躍。
バリトン ヨーゼフ・ザイペルト(1787~1847) 37歳
※ザイペルトはサリエリ門下、作曲家、指揮者としても活躍
オーケストラ ケルントナートーア劇場の宮廷楽士 40数名および、ウィーン楽友協会の上級演奏会員(音楽を職業としないディレッタント=技量をもつアマチュア)
管楽器の人数は楽譜指定の約2倍
合唱 ケルントナートーア劇場に属する少年合唱のメンバーを含めて約90名(諸説あり)
このコーラス、現代のようにオーケストラの後ろに配置されていたのではなく、オーケストラの前に立っていた! その日おかしなことになったのではなく、これが19世紀前半、ウィーンでオラトリオなどが演奏される際のスタイルだった。コーラスがステージ後方ではなく、指揮者を取り囲むように並んでいた、あるいは指揮者の左右に広がっていた、その「背後」にオーケストラがいたのである。
さて、ベートーヴェンはどこで何をしていたのか。舞台にいたことは分かっている。指揮者ミヒャエル・ウムラウフの隣に陣取り、楽章が始まるごとに、飛び上がらんばかりに動き、その楽章のテンポを指示していたようだ。
美しい逸話が伝えられている。後にリストのライヴァルとなる歴史的なピアニスト、ジギスモント・タールベルク/ジギスムント・タルベルク(1812~1871)によれば、第2楽章のスケルツォが終わった後、アルト歌手のウンガーが、大歓声に気がつかなかったベートーヴェンを客席に振り向かせた、と。この感動的な出来事は曲が終わった時だったかも知れない。証言をした未来のピアニストはこのとき12歳だ。記憶違いもあるだろう。
演奏後、聴衆は熱狂し、複数の批評は19世紀初頭の価値基準を何もかも超越した交響曲を目の当たりにし、ただただ驚嘆した。
最後の楽章を除いては素晴らしい。ベートーヴェンほどの天才がなぜ交響曲に声楽を導入したのか、理解できないとの声も挙がった。
初演の後
クリムトのベートーヴェン・フリーズ
1897年に保守的な美術界と決別し、分離派を宣言した格好のグスタフ・クリムト(1860~1918)らも第9から多くの霊感を授かった。セセッシオン分離派会館地階を彩る大作ベートーヴェン・フリーズを挙げるまでもない。1902年の第14回ウィーン分離派展、テーマはベートーヴェンだった。ドイツの彫刻家マックス・クリンガーのベートーヴェン像も、ウィーン宮廷歌劇場の監督マーラーがトロンボーン六重奏に編曲した第9の第4楽章も同展の華だった。
ウィーン・フィル結成
音楽史の針を少しだけ戻す。第9初演から18年後の1842年3月28日、ウィーン宮廷歌劇場の指揮者オットー・ニコライのもとに同歌劇場管弦楽団の有志が集い、王宮舞踏会場レドゥッテンザールで念願のオーケストラコンサートを開催した。
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の始まりである。ニコライと宮廷歌劇場管弦楽団の面々が1842年、集会や結社が制限されていた時代にも関わらず、同好会的に集い、演奏したかったのはベートーヴェンの交響曲だった。実際最初の公演で「レオノーレ」序曲第3番と交響曲第7番が鳴り響いている。
ほどなく第9も奏でた。実はこの第9を技術的にも音楽的にも高い水準で演奏したい、いやしなければならない──それがウィーン・フィル結成のひとつの大きな理由だった。第9初演から18年、ベートーヴェンが亡くなって15年。
時代は変わろうとしていたが、1842年のウィーン・フィル結成時には1824年5月7日にベートーヴェンのもとで第9を奏でた宮廷楽士が何人もいたのだ。
すべては200年前に始まった。
文:
奥田佳道(音楽評論家)
1962年東京生れ。ヴァイオリンを学ぶ。ドイツ文学、西洋音楽史を専攻。ウィーン大学に留学。多彩な執筆、講演活動のほか、NHK、日本テレビ、WOWOW、クラシカ・ジャパン、MUSIC BIRDの音楽番組に出演。現在NHKラジオ深夜便「クラシックの遺伝子」および日曜朝の「音楽の泉」に出演中。