アンゲリカ・カウフマンの伝記には、人々に崇拝される地位を築くために必要なすべての要素が含まれています。
絵画の天才アンゲリカ・カウフマン
アンゲリカ・カウフマンの伝記には、人々に崇拝される地位を築くために必要なすべての要素が含まれています。才能と野心、本格的なスキャンダル、魅力、そして当時馬と馬車はあるものの、各地を飛び回る生活。
女流画家アンゲリカ・カウフマンは、スイスのクールで生まれ、フォアアールベルク州で育つ。父とともにシュヴァルツェンベルクの三位一体教会の祭壇画を制作。その後ロンドンでも活躍し、ロイヤル・アカデミーの創立メンバーとなる。ゲーテ、ヘルダーなど多くの芸術家と親交を持ち、ローマで世を去った。
1741年10月30日にスイスのクールで教会の娘として、肖像画家であったヨーゼフ・ヨハン・カウフマンとその妻であるクレファ・レッツの間に生まれました。アンゲリカの父親はシュヴァルツェンブルク出身で、彼女はいつも故郷としてブレゲンツの森を誇りに思っていました。この地方は、多くのずば抜けた芸術的才能を排出した土地柄で、アンゲリカ自信もまさにブレゲンツの森の気質をもって生まれてきた人間と感じていました。
早くから娘の才能に気付いた父親は、娘の芸術における教育に力を注ぎました。1742~52年に父親はヴァルテリーナのモルベーニョで肖像画家として働き、娘に絵を描く指導をしました。後に、イタリアのコモやミラノに家族で移り、娘に合った先生を見つけました。
1757年3月1日に母親が他界してから、アンゲリカはシュヴァルツェンベルクに自身の家を構えました。ここで、町の教区教会内において、十二使徒の絵を描きました。彼女の父親は教会内の装飾を施す仕事を任されていました。彼女の繊細な作業は、十二使徒の頭を見ればそれが分かります。
1766~81年にかけて、彼女はロンドンに住み、そこでは彼女の作品は熱狂的に賞賛されました。そして、ロイヤル・アカデミー・オブ・アートの創立者の一人になりました。また、1782年から亡くなるまでイタリアに住み、その多くの時を芸術家や肖像画家として名声を得たミラノで過ごしました。彼女はオープンハウスを設け、多くの有名人を迎え入れました。その中には、ゲーテやヘルダー、ヴィンケルマン等がいました。彼女は数えきれない程の有名人や国王の肖像画を描きました。
彼女は子供がいないまま1807年11月5日に亡くなり、サン・アンドレア・デラ・フラッテ教会の、ベネチアの画家であり建築家であった夫アントニオ・ズッキの横に埋葬されました。