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    グスタフ・クリムト (1862 - 1918)

    オーストリアを代表する画家、グスタフ・クリムトは、芸術運動ユーゲントシュティール(ウィーンの世紀末芸術様式)の代表者であり、才能溢れる若き芸術家たちの後援者でもありました。代表作の絵画「接吻」は世界中の人々に親しまれています。クリムトは保守的な美術家協会を脱退し、セセッシオン(分離派)の名のもとに、新しい芸術家グループを結成しました。これが、オーストリア・モダニズムの誕生の時です。

    貧しい彫金師の息子として生まれ、奨学金を得て美術工芸専門学校に学ぶ。弟エルンス ト、友人フランツ・マッチュとともに「コンパニー」を設立、長らく歴史主義絵画を制作した後、ベルギーのコーノプフ、オランダのトーロプ、彫刻家ロダンか ら決定的な影響を受けて、独自のスタイルを確立、また、初代総裁としてセセッション発展、若手育成に尽力しました。

    1900〜1905年ウィーン大学セレモニーホールのため制作した天井画は一大スキャンダルとなり、結局クリムトは大学からの委嘱を返上した。1903年 2度にわたりイタリアのラヴェンナへ旅行、サン・ヴィターレ教会のビザンツ・モザイクから大きな影響を受け、以降の作品に金箔モザイクの要素を用いるよう になりました。生涯結婚せず、エミーリエ・フレーゲを伴侶としたほか、モデルの多くを愛人としました。

    装飾的な歴史主義から出発して、再び装飾に帰着したクリムトのプロセスは、モダンへの最もウィーン的なアプローチでした。

    作品
    歴史主義時代の壁画:ヘルメスヴィラのエリーザベト皇后の寝室、ブルク劇場階段ホール(アポロの祭壇、ディオニソスの祭壇、タオルミナの円形劇場、ロンド ンの地球座=シェークスピアの劇場。なお、「地球座」の観客の中には、襟飾りのクリムト、弟エルンスト、友人フランツ・マッチュが見られる)、美術史博物 館階段ホールのスパンドレル(エジプト、古代ギリシャ、古代ローマ、ローマとヴェネチアの15世紀、フィレンツェの15世紀)。
    ウィーン博物館カールスプラッツ:「愛」「俳優レヴィンスキー」「エミーリエ・フレーゲ」その他。
    オーストリア・ギャラリー:「ソーニャ・クニップス」「水蛇I」「接吻」「アデーレ・ブロッホ=バウアー」「ヴィオレットの帽子」「アッターゼーの風景画」数点、その他。
    セセッション:「ベートーヴェン・フリース」
    応用美術博物館:ストックレー邸壁画「期待」、「充足」のエスキス。
    オーストリア演劇博物館:「赤裸々な真実」
    アルベルティーナ:素描多数。

    墓所
    ヒーツィンク墓地 Hietzinger Friedhof, 1130 Wien, Maxingerstrasse 15:地下鉄 U4 Hietzing 下車 (Gruppe 5, Nummer 194/5)

    グスタフ・クリムトは世紀末のウィーンを代表する芸術家として、「世界中で最も有名なオーストリアの画家」という今日の名声を不動ものにした多数の作品を創作しました。

     

    若き日々
    グスタフ・クリムトは今から150年前の1862年7月14日、中流の貧しい家庭の7人兄弟の第二子としてウィーン郊外のバウムガルテンで生まれました。子供時代から青年時代は、ちょうど19世紀のドイツ・オーストリアにおける経済繁栄と大型建築物建造の全盛期であるグリュンダーツァイト(Gründerzeit)の時代と合致しています。それはちょうど、リンク通りプロジェクトの巨大建築物の建設が、最終段階に入ったばかりの頃です。経済的苦難をよそに、クリムトは円満な家族の中での生活を謳歌し、兄弟たちは生涯仲の良い緊密な関係を保っていました。家族との楽しい時間は割かれる事になりましたが、才能あるクリムトは応用美術大学の前身であるウィーンの美術工芸学校(Kunstgewerbeshule)に入学させられました。間もなく彼は、新しいリンク大通りの建築物の外装デザインの仕事をする芸術家たちの仲間入りをすることになります。

    1880年代初頭には、弟のエルンストとフランツ・マッチェの3人で芸術家商会「キュンストラーカンパニー」を設立し、以後10年間彼らはウィーンおよびオーストリア・ハンガリー帝国全土に渡る数多くの建物の壁画と天井画の制作を委託されます。1892年、芸術家商会は弟エルンスト・クリムトの死によって崩壊しますが、グスタフ・クリムトは芸術的にはすでに古いインテリア装飾のスタイルからは脱却していました。ジグムント・フロイトが画期的な精神医学の論文を出版していた世紀末前後のウィーンでは、芸術もまた新たなる方向を模索していました。象徴主義の影響の下、クリムトは感情の暗部と希望に満ちた幻想的なイメージによって明確化される、魂の心象を表現するための新しい形式言語を探し求めていました。

    ウィーン分離派
    1897年、クリムトは伝統的な美術から分離し、新しい造形表現を主張する芸術家集団、ウィーン分離派の創始者の一人となりました。クリムトは分離派の初代会長に就任し、突然世間の脚光を浴びることとなります。市街のカールスプラッツにあるセセッシオン(分離派会館)は、新しい芸術運動の展示会場となりました。この時期は、クリムトの一連の事件の中でも1900年に物議の頂点を迎えた、いわゆる「学部の絵」と呼ばれるウィーン大学の大講堂に描いた天井画三部作によって、オーストリアの芸術界が最もスキャンダラスな出来事を目の当たりにした時代でした。1902年に第14回分離派展覧会(ベートーヴェン展)のためにクリムトが描いた大作「ベートーヴェン・フリース」は、装飾性を優先することを特色とした、新しい創造性の時代の幕開けを示しています。また、技巧的には、金箔の使用量が増え始めた頃の作品で、クリムトの代表作「接吻」(1907年~1908年)でその特徴は頂点を迎える、いわゆる「黄金の時代」の始まりを告げるものでした。

    モダンアートのパイオニア
    クリムトは一生独身を通し、何人かの女性との間に子供をもうけていますが、ウィーンでモデルの衣裳をデザインするモードサロンのオーナー、エミーリエ・フレ-ゲこそがクリムトの生涯の伴侶でした。また、クリムトの最も有名ないくつかの風景画のモチーフともなり、ほとんど毎年夏に訪れていたアッターゼー湖のことを、彼に教えたのもフレーゲでした。
    30年に及ぶ集中的な創作活動と、数多くの栄光、そして、評論家たちとの激しい対立の後に、グスタフ・クリムトは脳梗塞に倒れ、肺炎のため1918年2月6日享年55歳でこの世を去りました。彼の亡骸はウィーンのヒーツィンガー墓地に埋葬されています。

    グスタフ・クリムトは自分の作品のこと以外、自身についてはあまり語りたがりませんでした。輝かしい仕事の成功にも関わらず、クリムトは社会生活の中では自信が持てませんでした。彼はいつも青いスモック(仕事着)を身にまとい、頭髪は乱れ、出身地訛りのある身分の低い人の言葉遣いで話しました。オーストリアの皇帝からは勲章を授与されていましたが、クリムトは上流階級から無視されていました。彼は富裕な上流市民を顧客とした画家であり、その特徴は女性の肖像画に最も顕著に表現されています。

    クリムトには、新しいアートトレンドに対して開放的なユダヤ人のパトロンが何人もいました。クリムトの人生は、オーストリアの作家ヘルマン・ブロッホが「陽気な黙示録」と呼んだ時代と合致しています。クリムトはこの両面性と激動の時代を、芸術的な探査と解釈のための題材として捉えていました。彼の没年である1918年は、重要な転換期を象徴する年です。この同じ年に数多くの気の合う仲間たち、例えばオットー・ワグナー、コロマン・モーザー、エゴン・シーレらが他界しただけではなく、この年はオーストリア・ハンガリー帝国が滅亡した年でもありました。その後、経済的苦難の時代を迎え、世紀末の記憶は色あせていきました。さらなる転換期がナチスによる恐怖の時代によって訪れ、クリムトのパトロンであった多くのユダヤ人の家族たちが、この恐怖の時代の犠牲となり、あるいは、国外亡命を余儀なくされました。

    批難と賛同、そして成功に彩られた人生を送ったクリムトは、モダニズムの黎明期を彩った時代、世紀末ウィーンの中心的な人物の一人でした。

     

    初期の作品
    リンク通りの時代、美術の教育を終えたグスタフ・クリムトは、装飾画家としてその経歴が始まりました。弟のエルンストとフランツ・マッチェの3人は視覚芸術家の大きな集団に所属し、新たに建設されるグリュンダーツァイト(Grüderzeit)の大規模建築物に芸術の息吹を吹き込んでいきました。これらの初期の時代のクリムトは、ブルク劇場や美術史博物館の階段ホールの装飾画を描きました。
    やがて、彼は実績と信頼を積み上げ、経済的にも安定してきました。しかし、クリムトが本当に懸命に追い求めていたものは、彼独自の表現形式でした。クリムトは34歳の時、芸術の刷新と現代アートの国際的な潮流に自らを開放していこうとする集団、ウィーン分離派の会長に就任しました。ヨーゼフ・マリア・オルブリッヒが設計した分離派会館は、数々のスキャンダルが渦巻いた革新的な展覧会の会場となりました。
    「学部の絵」と題されたクリムトの問題作に対して抗議した敵対者の一人は、「我々が戦っているのは、裸体画でも、自由芸術でもない。醜い芸術だ!」と息巻きました。しかし、1900年のパリ万国博覧会では、三部作「学部の絵」の内の「哲学」という絵画がグランプリを受賞しました。この名誉によって、クリムトはヨーロッパ中にその名を知られるようになりました。

    成功の頂点へ
    この時代の芸術の重要なハイライトは、1902年に開催された第14回分離派展覧会です。この展覧会では、ベートーヴェンに捧げられたクリムトの大作「ベートーヴェン・フリーズ」という作品によって、芸術統合(Gesamutkunstwerk)という夢が実現されています。現在、この作品は分離派会館内の元々あった展示場所に修復されています。この展覧会の一年後、クリムトはウィーン工房の創立者である建築家ヨーゼフ・ホフマンとの緊密なコラボレーションにより、有名なブルッセルのストックレー邸(2009年ユネスコ世界遺産に登録)の内装を担当しました。このようにしてクリムトは、ユーゲントシュティールの時代全体を通して、芸術統合の最も有名な作品の多くを創造したのです。 
    「ベートーヴェン・フリーズ」は、その特徴となっている装飾性の優先と金箔の多用によって、クリムトの「黄金の時代」の始まりを示し、「接吻」という名作でその特徴は頂点に達しました。この時代のクリムトの作品は、その力強い象徴主義と緻密な装飾性によって、女性の官能を賛美しています。しかし、彼の晩年の作品において金箔による表現は、色彩の強調が多用された装飾的な表現派のスタイルへと復帰しています。

    肖像画とデッサン
    グスタフ・クリムトは全経歴を通じて、上流階級の女性たちを描いた画家です。「アデーレ・ブロッホ・バウアーの肖像I」という作品は、数年の間、世界で最も高価な絵画として評価されていました。肖像画に加え、クリムトにとってデッサンもまた生涯とても重要な興味の中心でした。残された約3000点にも及ぶデッサンの数と、残された約250点の絵画の数とを比べて見れば、クリムトの全作品の中でもこのジャンルを、彼がいかに大切に思っていたかがよくわかります。また、これらのデッサンの例外的な質の高さは、この種のものの中で最も偉大な芸術遺産と言えるでしょう。

    クリムト作品の展示
    クリムトの最も重要な作品は、ベルヴェデーレとレオポルド美術館で見ることができます。セセッシオン(分離派会館)では、有名な「ベートーヴェン・フリーズ」が、当時初めて一般公開された時とまさに同じ場所に展示されています。400点の作品を誇るウィーン・ミュージアムでは、世界最大のクリムトのデッサン・コレクションがあり、この芸術家の全創作期の作品を網羅しています。ウィーンのアルベルティーナ美術館でも、多数のクリムト・コレクションを見ることができます。
     

    1907年グスタフ・クリムトは、彼の全作品の中、および、ヨーロッパのユーゲントシュティール運動の全盛期の中でも、最も有名な作品「接吻」の制作に着手しました。

    グスタフ・クリムトにとって、朝から晩まで休みなしにアトリエで仕事をすることは普通のことでした。1907年も、それは例外ではありませんでした。やがて、無数のスケッチが床を埋め尽くしましたが、筆は一向に進まず、クリムトは仕事の難しさに対する不平を繰り返しました。この時の心境を彼は手紙にこう書いています...「私が歳を取り過ぎたのか、神経質過ぎるのか。それとも、愚かなのか...。ともかく、間違いなく何かがおかしい。」。それでもなお、この年は彼の生涯において最も生産的な時でした。この年、クリムトは他の仕事と共に「アデーレ・ブロッホ・バウアーの肖像I」と「希望 II」を完成させました。しかし、一番重要な事は、後に美術史上最も有名な絵画の一つとなる「接吻」の制作を始めた事です。
    接吻によって結ばれた二人の恋人たちのテーマは、彼の経歴を通じてずっと彼の心を占有していた主題でした。このテーマのバリエーションを、彼の初期作品に見ることができます。装飾性の強調と金箔の使用量の増加を反映したクリムトの「ベートーヴェン・フリース」(1902年)は、クリムトの最も有名な絵画における重要な芸術的技法の確立の前兆を示した作品です。「接吻」で頂点に達する「黄金の時代」を築いた時の着想は、恐らく1903年に彼がイタリア旅行中にラヴェンナを訪れた時に出会ったビザンチン・モザイクの世界から得たものでしょう。その他、クリムトは現代の絵描きたちからも影響を受けています。その中でも抽象的、装飾的様式のオランダの象徴派画家ヤン・トーロップと、ベルギーの象徴派画家フェルナン・クノップフの名前は外せません。
    「接吻」に描かれている女性が誰なのかを特定する試みは、今まで何度も行われてきました。その中で上げられた女性の名前には、生涯の伴侶エミーリエ・フレ-ゲや、アデーレ・ブロッホ・バウアーも名を連ねています。絵の中の問題の女性の均整のとれた顔立ちは、クリムトが数多く描いた女性の肖像画の人物の特徴と類似しています。しかし、結局のところ、どの人物とはっきりと特定することはできません。絵の中では、カップルが花畑で抱き合っている姿が描かれています。男性は女性の方へかがみ込み、彼女はピッタリと彼にしがみついて、接吻されるのを待っています。装飾性という観点から見ると、男性の姿は四角形と長方形で特徴付けられ、女性の姿は柔らかい線と花柄が支配しています。黄金の光背が二人を取り巻いていますが、それはつま先が鋭く折れ曲がり、花々に覆われた草地にしっかりと突き立てられた女性の素足の所で終わっています。しかしながら、同時に二人は世俗の重荷の最後の名残を振るい落とし、ほとんど神聖な領域のような別の無限空間に運ばれて行ったようにも見えます。これは正に、ビザンチン・モザイクの金色の背景を彷彿とさせます。
    1908年にクリムトが初めてこの絵を一般公開した時、未完成であったにも関わらず、展覧会で直接オーストリア絵画館が買い取りました。この絵画は、グスタフ・クリムト作品の世界最大のコレクションの中心を成す最も重要な名作で、ウィーンのベルヴェデーレが所蔵しています。

    グスタフ・クリムトが、何度もアッターゼー湖で夏休みを過ごした時に描いた風景画は、現代の流行とオーストリアの伝統的な風景画の手法を、同等に取り入れていることを示しています。

    1900年から、グスタフ・クリムトはほとんど毎夏、エミーリエ・フレーゲが紹介したザルツカンマーグート州のアッターゼー湖で過ごしています。クリムトは例え休暇中であっても仕事をする、疲れ知らずの働き者で、朝は早くから起き、夜は早く床に着きました。彼はいつもで画家用の青いスモック(仕事着)を着いたにも関わらず、何故か彼が陽気な社交の場で過ごしている写真をよく目にします。彼は「ちょっと、筋肉を目覚めさせるため」と言っては、ボート漕ぎを楽しみ、とても用心深く泳ぎ、散歩に出掛ける時はいつもスケッチブックを携えて行きました。クリムトはまた、初めてのファッション写真家の一人でもあり、エミーリエ・フレーゲ自身が創った10点の服を身に付けた彼女の写真を撮影しています。

    アッターゼー湖で過ごした夏の日々に描かれた風景画は、彼の全絵画作品の四分の一を占めています。彼はこれらの作品に、庭、果樹のある牧草地、青々とした草木に囲まれた農家、湖と岸辺の細部描写などのシンプルなモチーフを取り上げています。クリムトはいつも野外で風景画を描きましたが、彼は変わった技法を使って、風景の中の独特なものにスポットを当てました。これらの絵は、例えば、全景ではなく、高い位置から、あるいは、水面の高さから見た湖の岸辺の独特なディテールを捉えたものです。これらの奇妙な視点は、彼が「ファンインダー」と呼んでいた、当初は単に厚紙に穴を開けたもの、後に象牙の板で作ったものや、オペラグラスなどを覗いて構図を決めていたことに起因するものです。クリムトの風景画は、印象派の影響や、ヴァン・ゴッホの絵画の影響を示しています。また、彼はしばしば点描の効果もよく用いています。しかしながら、これは絵を色の断片に分解したことに起因している訳ではなく、むしろ個々の物を色のブロックとして表して並べた結果と、全体的な奥行きの錯覚の欠如によるものです。これらの効果によって、緊張から解放された画面が生まれ、時間が止まっているような瞑想的な平穏を伝えています。しかし、ここには人間の居場所はなく、ニワトリ以外の動物もいません。彼が選んだ題材より絵画的な考察を優先したシンプルなモチーフと、劇的な要因の欠如が、見る者の瞑想を誘います。現代芸術の影響を受けているにも関わらず、クリムトの絵はオーストリアの伝統的な風景画にしっかりと根ざしているのです。

    アッターゼー湖のクリムトセンター
    GUSTAV KLIMT ZENTRUM
    Schlossallee Kammer am Attersee
    Hauptstraße 30, 4861 Schörfling
    www.klimt-am-attersee.at

    グスタフ・クリムトは初期の仕事を除き、肖像画は女性しか描きませんでした。デッサンと共に、これらの絵画は、彼が美術史上最高のエロチシズムの巨匠の一人であることを証明しています。

    グスタフ・クリムトは一度も結婚婚せずに、彼の母が死ぬまで母と2人で暮らしました。彼は世紀末のウィーンで、自身の死が訪れる3年前まで、女性モデルたちや肖像画を依頼した上流階級の女性たちとの数え切れないスキャンダルにさらされました。通常は修道士の姿に似た絵描用のスモック(仕事着)姿で撮られることの多かった彼の写真を見ると、彼は厳格でよそよそしく見えます。しかし、クリムトは様々な女性に14人もの子供を産ませたと言われています。彼にまつわるもう一つの謎が、生涯にわたり付き合っていたエミーリエ・フレーゲとの関係です。二人の間に交わされた手紙が、彼の死後何十年も経ってから発見されましたが、それらは別に二人の関係を解明するものでなく、ただ繰り返しやり取りされた伝達の手段を示す、取るに足らない情報でしかありませんでした。とはいえ、それらの書簡はエミーリエ・フレーゲと画家との何十年にもわたり育んだ深い愛情を表したものであることに変わりありません。

    多くのうわさがどれほど真実を含んでいたかは別として、女性たちと彼との関係は完全に明らかではありませんが、それらの出来事は時として、クリムト自身が認めたような関係になっていたことは確かなようです。彼がアルマ・シンドラー(後のアルマ・マーラー・ヴェルフェル夫人)を口説いたために起こった彼女の義父との口論の末に、ヴェニスから逃れてウィーンに舞い戻った時、クリムトは彼の到着をエミーリエ・フレーゲに知らせる電報を、すぐに送ることを忘れませんでした。彼がウィーンに慌てて戻ったのは、もしかすると2人のモデルがじきに彼の子供を出産することを思い出したからかも知れません。

    女性たちの肖像画
    クリムトの作品がほとんど無双の官能への称賛であることは、議論の余地がありません。クリムトの赤裸々な官能表現によるこれらの描画は、彼が高く評価していた若きエゴン・シーレの後の官能的な作品を驚くほど予感させています。しかしながら、クリムトは自分の絵のテーマを若い裸婦に限定することはなく、妊娠した女性、歳をとった女性、肉体的な美しさを失った女性など、あらゆる女性の姿を描きました。クリムトは、女性らしさを自然の現象として捉え、時間の経過と共に変遷する発達と減退という自然のサイクルを、女性の肖像画に表現することを探求しました。
    創造力の絶頂期に、クリムトは肖像画の女性の姿を、表現機能を持った装飾体系の中に取り入れると同時に、絵画的な焦点を女性の顔と手に当てることによって、絵を見る人とモデルとの間に距離を創り上げました。後にその機能は色の要素が受け持ち、ある意味では色は絵の中で独自の生命を獲得し、以前装飾がそうしていたように、画中の2つの次元を強調しています。絵を見る人とモデルとの距離を得ようとするクリムトの努力をよそに、実際には見る人と、特徴づけるのが難しい描かれた女性との間に緊張関係を創り出すことに彼は成功しました。この緊張感は、これらクリムトの絵画をいつも際立たせている特別な魅力を醸し出すことに貢献しています。

    「黄金のアデーレ」
    「アデーレ・ブロッホ・バウアーの肖像 I」は、間違いなくクリムトの女性の肖像画創作の絶頂期を代表する作品でしょう。ラヴェンナのサン・ヴィターレ教会にある女帝テオドラを描いた6世紀のモザイク画をクリムトが見て触発されて、女性の美しさを賛美するモニュメントとして描いたこの作品は、彼のすべての時間とエネルギーを費やして、それにふさわしい女王的な姿を描き上げたものです。クリムトは金箔を多用しながら、大幅に色の使用を控えた技法や、芸術的伝統を結合させることに対する彼の深遠な意識は、他のヨーロッパの中心地で起こった類似する芸術運動と、ウィーンのユーゲントシュティールとを明確に区別している比類なきオーラを創造する目的のためのものなのです。それに加えて、細部に渡り繊細に描かれたアデーレ・ブロッホ・バウアーの顔は、主題が絵の普遍性の後ろに消えてしまうのを防いでいます。

    ユーゲントシュティールは美術および文化史上、最も偉大な国際的な現象です。モダニズムが始まった当時、侵害され、無力になった時代に芸術を再生させるのがその目的でした。

    アールヌーボー、モダン・スタイル、自由なスタイル、モダニスモ、セセッシオンなど、ユーゲントシュティールと関連したトレンドは国際的な現象でした。それらは、伝統的な19世紀の"創始者の時代"Grüderzeitのフォルムを拒絶する運動と理解されていました。それは新しく、新鮮で官能的な芸術が出現する時代でした。自然をお手本として厳密にそれを順守すると同時に、深く、隠された情緒的な状態を視覚的に表現できるようにすることを追求しました。生活のすべての側面を網羅するような芸術を目指し、建築とビジュアル・アートの芸術統合(Gesamtkunstwerk)を創造するために懸命に努力することでした。ヨーロッパの中で最も大きなメトロポリスであるウィーンが、ユーゲントシュティールを代表する重要な中心地でした。

    近代的アプローチ
    美術史おける世紀末最大の統一された様式運動による影響を、ウィーンのように現在も色濃く残している都市は、ほんの一握りしかありません。オットー・ワーグナー、ヨーゼフ・ホフマン、ヨーゼフ・マリア・オルブリッヒ、アドルフ・ロースらが設計した建物を、街のそこここで見ることがでます。シュタインホーフにある教会、郵便貯金会館、セセッシオン会館(分離派会館)などの建物はすべて、様式運動が目指した芸術統合の影響が見られます。
    ユーゲントシュティールは、工業施設や高架鉄道システム、別荘、教会から、バーやコーヒーハウスのインテリア・デザインに至るまで、ありとあらゆる建築と芸術の形式を網羅しています。総合的な「生活スタイルの変革運動」として、日常生活のすべての側面に浸透し、高級芸術と低級芸術の境界、および、フリーアートと美術工芸の垣根を打ち破りました。このようにして、ユーゲントシュティールは新生モダニズムのための重要な推進力となったのです。

    ウィーン分離派
    分離派として知られていた芸術家組合の会長グスタフ・クリムトは、ユーゲントシュティール運動の正に中心を担っていました。普段は寡黙でしたが、彼はこの組織の演説者であり、精力的な主催者であり、将来を嘱望された才能を持った若き芸術家たちの後援者でした。
    また、クリムトは誰もが認めるこの運動全体の象徴である、1907年から1908年にかけて制作された世界的に有名な「接吻」を含むユーゲントシュティール運動の重要な作品の創作者でした。際立って質の高い特徴をもったウィーンのユーゲントシュティールは、芸術的な伝統に深く根差していると同時に、他のヨーロッパの関連した運動のように、自身の制作にヨーロッパ以外の芸術の要素を果敢に取り入れていきました。クリムトにおいては、アジアの芸術に多大な影響を受け、また、ラヴェンナのモザイクの発見によって得た新たな刺激を、自分たちの芸術運動に取り入れていきました。彼の絵画では、色とフォルムと線の要素のそれぞれを、具象描写の物語から解き放ち、それ自体を象徴と抽象に発展させました。すなわち、グスタフ・クリムトの制作作品は、モダニズム抽象画の重要な先駆を代表するものです。

    ウィーンにおけるユーゲントシュティールの実例:
    シュタインホーフ教会 (サンクト・レオポルド教会)
    14区、バウムガルトナー・ヘーエ 1、ウィーン
    ガイド付きツアー: 土曜日の午後3時、日曜日の午後4時
    見学:土曜日の午後4時から5時まで、日曜日の午後12時から午後4時ま

    郵便貯金会館
    1区、ゲオルク・コッホプラッツ、ウィーン
    郵便貯金会館は、銀行の通常営業時間内に銀行利用者と観光客に開放されています。

    セセッシオン会館(分離派会館)
    1区、フリードリッヒシュトラーセ 12、ウィーン
    開館時間:火曜日から日曜日の午前10時から午後6時
     

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