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    オーストリアの文化財と時代様式

    オーストリアは、ヨーロッパの心臓部に位置し、西と東、また南と北の世界の交差点にある国として、昔から文化発祥の地でした。オーストリアでは芸術は、生活の構成要素となっています。それは大都市に限られたことではなく、領邦君主の宮廷でも、それぞれの芸術の中心地でもそうでした。しばしば、最高の芸術品を所有しているのが、遠くはなれた谷間の小さな村であったりします。建築や芸術品などオーストリアの文化財は、それぞれの時代の文化様式で各地に最高傑作をたくさん残しています。オーストリアで比類ない宝物にめぐり合う芸術の旅へご案内しましょう。

    石器時代後期の狩人たちがワッハウ地方に豊穣の女神”ヴィレンドルフのヴィーナス”の像を創りだしました。オーストリア各地の博物館に収められている豊富な出土品の数々が、これに続く時代を裏付けています。ザルツカンマーグートの有名な地名に因んで名付けられた”ハルシュタット文化”と、ラ・テーヌ文化の時代からの陶器と並んで、とりわけ青銅器がイリュア人とケルト人の高い工芸制作能力を示しています。紀元前15年以上約500年の間、ドナウ川までにいたるアルプス地帯は、アウグストゥス皇帝の治下でローマ帝国に編入されることになります。ローマの居住・生活様式と並行して、地中海文化の影響により、石造建築とアーチ型、模様を具えた彫刻と壁画、装飾的なモザイク制作と高級な工芸技術も導入されました。民俗大移動時代の混乱の中で、確かにローマ文化は衰退しましたが、初キリスト教信仰は滅びず、聖フローリアンの殉教と聖セヴェリーンの名前としっかり結びついたのです。本来、キリスト教化は、ザルツブルクと中世初期のバヨヴァリィ人(今日のバイエルン人)の修道院設立に端を発します。この時代の貴重な証拠として、ザルツブルク流派(会が)の”ミレナウリス・コーデックス”とクレムスミュンスター大聖堂にある豪華な金杯”タッシロの盃”があります。リンツのマルティンスキルヒェ教会とカルンブルクのプファルツカペレ(王宮礼拝堂)には珍しいカリリング王朝時代の記念建造物が保存されています。

    11 世紀におけるその芸術的表現は、オーストリアの初期ロマネスク様式です。 中期のロマネスクは 12 世紀に発展し、後期ロマネスクはすでに ゴシック様式と重なっています。

    芸術といえば、ほとんどすべて教会のためでしたが、これは12、13世紀にクライマッ クスに達します。当時オーストリア全土に堂々たる大聖堂や大規模な修道院が建立されましたが、これには、古典期以来初めて彫刻というものが大きな役割を果 さなければなりませんでした。すなわち、教会の正面入口やアプス(教会後陣の半円型の張り出し)には大量の建築彫刻が、また内部には、感銘深いキリスト十 字架像や聖人の彫像が必要となります。

    したがって、ラムバッハ、ピュルク、グルク、フリーサッハ、またザルツブルクのノンベルク修道院のように、壁一面のフレスコ画が教会内部の各部屋を飾ることになり、中世最盛期の保存物として最重要文化財に数えられています。

    これと関連して、ザルツブルクを中心とする装飾挿絵や細密画もあります。クレムスミュンスターの円形光背を持つ十字架像、ザルツブルクのサンクト・ペー ター教会の聖体拝領聖盃、クロスターノイブルクにある巨匠ニコラウス・フォン・ヴェルダンの琺瑯の祭壇などの作品は、ヨーロッパの芸術作品の最高峰であ り、それらの中にシュタウフェン王朝時代の芸術の本質が極めて純粋な形で結晶しています。

    これら古くからの伝統的芸術作品と並んで、オーストリアは、その神聖ローマ帝国の表章と宝物の中に、ヨーロッパは一体であるとする包括的な理念を素晴らしい方法で象徴化する中世世界の崇高な証しの数々を深くとどめています。

    色彩華やかな堂々たるステンドグラスにより、教会の内部空間に宗教的体験の新たなアクセントがもたらされました。彫刻は、理想的に高められた聖人像の表現、特に1400年頃の柔らかな様式の聖母像のテーマの解釈としてはヨーロッパ芸術の中 で、おそらく最も優雅なものであったと思われます。

    絢爛たる壁画や貴重な書物の挿絵のほかに、とりわけ後期ゴシック式の板絵があります。その代表的な画家として、ミヒャエル・パッヒャー、リューランド・フ リューアウフ、長い間ウィーンで活動したルーカス・クラーナッハや、これまで確認されていないウィーナー・ショッテンマイスターの名が挙げられます。

    またヴォルフ・フーバーやアルブレヒト・アルトドルファーもいます。板画と彫刻芸術は、中世の終わりにはひとつに結び付き、様々な形をした翼祭壇の新趣向 を開いています。しかしまた、工芸、特に金細工術のはたらきにより、この時代の様式の豊富さと芸術的表現には目をみはるものがあります。「最後の騎士」と 呼ばれた皇帝マキシミリアン1世と共に、200年余り続いた中世は終わりを告げます。

    ウィーンの教会建築では、シュテファン大聖堂のほか、ミノリーテン教会、ドイツ騎士団教会など。ザルツブルクで最古の教会の一つ、フランツィスカーナー教会もゴシック。ハル・イン・チロルのハーゼック城。また、シュタイヤーのブンメールハウスは美しいゴシック建築。教会建築は、時代をまたがって改築、増築をしていったので、後期ロマネスク様式と前期バロック様式が一つの大聖堂、修道院のなかに混在しています。

    1500年頃の初めには 後期ゴシック様式との対立があり、1610/20頃の終わりには、初期バロック様式へと移行していきます。それは、ハプスブルク家が世界帝国を目指し、ド ナウ河周辺諸国が統一への道をたどる世紀でもあります。この時代の前半で、絵画と彫刻がもっぱら優勢であったとすれば、世襲領地にも浸透してきた宗教改革とその偶像敵視によって、後期ルネッサンスの優位は建築芸術と工芸に移っていきます。領邦君主の居城のある市が芸術活動の中心地でした。おおかた新教徒の貴族や富と名声を手に入れた都市ブルジョアは、今こそ”ロマン風”に、その宮殿、別荘、邸宅を飾り立てます。南欧を思わせる拱廊をめぐらせた中庭や古典的教養を身につける材料をふんだんに盛り込んだスグラフィットのファサード装飾が、この技巧性を付与するマニエリズムの特徴も感じられます。オーストリアで今日まで保存されているルネッサンンス様式の芸術実例は、規模においてこそ、他の様式の時代のものに比して遥かに少ないですが、それでも絶えず戦争に、宗教上の戦いに、また革命に脅かされたこの時代に造形美術の分野で並々ならぬ業績が残されたことを証するものです。

    ルネッサンス時代の主な建造物:
    ホッホオスターヴィッツ城塞
    ランヅクローン城跡
    ポルチア城館
    ローゼンブルク城
    ハルトハイム城
    グラーツの州庁舎
    グラーツのマウソレウム(霊廟)
    アンブラス城のスペイン大広間

    ルネッサンス様式の場合と同じく、反宗教改革のしるしとして、この新しい様式をオーストリアにもたらしたのは、まず第一にイタリアの巨匠たちでした。しかし、バロック様式は、勝利のうちにトルコとの戦争が終結して、初めて開花することになります。

    1680年から1730年までの数十年の間に、皇帝、貴族、教会は競って絢爛たる城館、宮殿、そして教会や修道院を建築しました。その中で最も印象深いのは、三巨星フィッシャー・フォン・エルラッハ、ヒルデブラント、それにプランタウアーの手になる大建造物でしょう。

    バロック様式の総合芸術を補完するものとして、ロットマイヤー、トローガー、グラーン、アルトモンテ、マウルペルチュ、その他の画家によって制作された天井フレスコ画や祭壇画があります。

    バロック様式の彫刻芸術の最高峰は、ツュルン兄弟の形状豊かな彫刻作品や、シュヴァンターラー及びグッゲンビヒラーの彫刻家一族から、すでに古典的優雅の境に移行するゲオルク・ラファエル・ドナーにいたる工房の中に見られます。

    工芸品の中では今日のアウガルテン陶房の前身である帝国陶器制作所の作品がとりわけ名声をかち得ました。バロック時代の最後の段階は”ロココ期”の装いを 見せます。この時期にオーストリアの英雄時代の華やかな感情の高揚は、フランス風ロココの洗練された様式と解け合います。

    18世紀の芸術はフランス大革命を持って終わりを告げ新しい世界の時代が始まります。そこでは、古くから妥当とされてきたヨーロッパ芸術の目的観念は、もはや通用しなくなりました。

    バロック様式の主な建造物
    城館:
    ウィーン:シェーンブルン宮殿、ベルヴェデーレ宮殿
    グラーツ:エッゲンベルク宮殿
    インスブルック:王宮
    アイゼンシュタット:エスターハージィー宮殿
    ニーダーエーステライヒ州:シュロスホーフ城
    ザルツブルク:ミラベル宮殿大理石の階段など

    修道院・教会:
    ウィーン:カールスキルヒェ教会
    ウィーン郊外:クロースターノイブルク修道院
    ワッハウ渓谷:メルク修道院、ゲットヴァイク修道院、デュルンシュタイン修道院
    シュタイヤマルク州:アドモント修道院。マリアツェル巡礼教会、グラーツの皇帝フェルディナンド2世の霊廟
    オーバーエーステライヒ州:サンクト・フローリアン修道院(リンツ郊外)
    クレムスミュンスター修道院、ランバッハ修道院
    ザルツカンマーグート:モントゼー教区教会
    ザルツブルク:大学教会、サンクト・ペーター教会墓地
    インスブルック:サンクト・ヤコブ大聖堂
    チロル州:シュタムス修道院、ゲッツェンス教区教会

    その他:
    ウィーン:ノイアーマルクト広場のラファエル・ドナーの噴水
    ザルツブルク:洗馬場
    ニーダーエーステライヒ州:バーデンの中央広場
    ブルゲンランド州:ルストの中央広場
    クラーゲンフルト:竜の泉
    サンクト・ペルテンの市庁舎広場(ニーダーエーステライヒ州)

    「高貴なる素朴と静かな 偉大さ」を求める動きが啓蒙の芸術的創造を決定します。ともかく新古典主義はオーストリアでは、フランスのアンピール様式のような豊富な形態とはならず、 むしろ上品で簡素な変種となり、これがほとんど段階を踏むことなくビーダーマイヤー様式に移行していきます。

    代表的な建築家としてはイジドーア・カーネヴァレとルイ・モントワエが挙げられます。彫刻は、フランツ・アントン・ツァウナーとアントニオ・カノーヴァが 出てほんの短い開花期でした。新古典主義の主たる代表は、ハインリヒ・フューガーです。英雄的に栄えた時代に続くのは、1814/15年のウィーン会議の 後、市民的なロマン主義の時代です。

    政治的な出来事から広範に締め出された市民階級は、高度で自由な芸術を競って、工芸の分野で市民文化を創り出しました。それは真なるもの、美なるもの、しかしまた自由、平等、友愛に対しても開放的な態度をとっていました。

    この新しい世界像は、造形美術においては、絵画に完璧に表現されています。ヴァルトミュラー、アメリング、ダフィンガー、ダンバそしてルドルフ・フォン・アルトの作品の中に、市民のあり方の芸術的変容ぶりがうかがえます。

    新古典主義の反対運動、つまりロマン主義の高名な代表者はヨーゼフ・フリューリヒ、モリッツ・フォン・シュヴィントといった画家です。建築の分野ではヨーゼフ・コルンホイゼルが、その住宅用建築や別荘建築に携わることにより市民の傾向を標榜しています。

    応用芸術においては、家具・調度の分野で、1845年頃まで即物的で快適は様式が展開されます。これが、1848年の革命を持って終わる運命にあったビーダーマイヤー様式に、その名を冠するものでした。

    ビーダーマイヤー建築・町並み・墓地
    代表的建築:
    ビーダーマイヤーの代表的建築家ヨーゼフ・コルンホイゼル(1782〜1860)が、1822年改築を担当したヨーゼフシュタット劇場、旧市街のサイテン シュテッテンガッセの2番地の、コルンホイゼルの自宅、また4番地には同建築家の設計によるイスラエル協会の建物とユダヤ教会など。
    ウィーン グリンツィング:
    ホイリゲで名高いグリンツィングやヌスドルフなどには、ビーダーマイヤー時代の愛らしい町並みが残っています。
    サンクト・マルクス墓地 :
    現存する唯一のビーダーマイヤー墓地で、モーツァルトの墓で知られています。
    シューベルト・コンサート(リヒテンタール教会中庭):
    ウィーン9区のリヒテンタール教会。シューベルトが洗礼を受け、この教会のためミサを作曲した。毎年7〜8月、ビーダーマイヤー様式の中庭でシューベルトを偲ぶコンサートが催されます。
    バーデン(ウィーン郊外):
    市庁舎、サウアーホーフなど、典型的なビーダーマイヤーの建物が残っています。

    博物館
    ウィーンミュージアム・カールスプラッツ:
    ビーダーマイヤー時代の絵画、家具、陶磁器・グラスなどを網羅。
    オーストリア・ギャラリー(ベルヴェデーレ上宮):
    ヴァルトミュラー、シュヴィント、フェンディなどを筆頭に多くのビーダーマイヤー絵画が展示されています。
    応用美術館:
    ビーダーマイヤー及びユーゲントシュティルの陶磁器・グラスが展示され、両様式を比較することができる。

    工業の進歩発展により名声と富裕を手にいれた大市民階級の興隆により、この時期はいわ ゆる「会社設立ブーム時代」となります。ウィーンの稜堡取り壊しの勅令をもって、1857年オーストリアの建築史の重要な一章が始まります。ウィーンのリ ングシュトラーセ通り一帯は、フェルステル、ハンゼン、ゼンパー、シュミル、シッカルツブルクらによる豪華な建築物が建ち並ぶ19世紀後半の最大の都市建 設事業の場となりました。

    リングシュトラーセ時代の第一級の彫刻家は、アントン・ドミニク・フェルンコルン、カスパル・ツムブッシュ、それにヴィクトル・ティルクナーでした。ザルツブルク生まれのハンス・マカルトとその大量の絢爛豪華な絵画に、歴史主義の総合芸術の集大成を見ることができます。

    最後の数十年間に発展してくる芸術界の動向としては、エミール・ヤーコプ・シントラーの雰囲気に満ちあふれた風景描写に印象主義のオーストリア型バリエー ションを感じ取ることが出来ますし、またアントン・ロマーコの作品もしかりで、その絵画の中ではオーストリア・ロマン主義と印象主義がおりなされて表現主 義を予感させるまでに至っています。

    19世紀末のヨーロッパの芸術文化を指す”世紀末”、アール・ヌーヴォーという言葉は、今日広く一般に使われています。絵画・工芸の分野で、強く日本の浮世絵の影響を受けたこの激流は、ドイツ語圏ではユーゲントシュティールと呼ばれます。その一大中心地であったウィーンのユーゲントシュティールは、もとは1900年前後、風来の歴史主義に挑戦し、新時代にふさわしい建築と内装を目指した芸術家たちの運動をさすものでしたが、政治、経済、文化とあらゆる分野に数々の輝く恒星を抱くものでした。
    ウィーンにおける1898年のセセッシオンの設立とともに、半世紀に渡って優勢を保ってきた歴史主義は、西ヨーロッパに登場してきたアール・ヌーヴォー(ユーゲントシュティール)により最終的に克服されました。


    歴史的背景

    産業革命が波及して近代社会が確立した19世紀は、経済的膨張の時代であるとともに、政治的葛藤と社会矛盾が激化する過程であり、これらがあいまって頂点を迎えたのが19世紀末でした。幾世紀にわたって神聖ローマ帝国皇帝として君臨してきたハプスブルク家の帝都ウィーンは、19世紀末には没落への歩みを早めながらも、ひとり光彩を放っていました。産業革命の進行とともに、経済的裏付けをもって新しい芸術文化を後援しうる資産家たちが登場し、彼らがユーゲントシュティールのパトロンとなりました。


    ユーゲントシュティールの建築家と芸術家


    ウィーンのユーゲントシュティールの重要な立役者として、建築の分野ではまずはオットー・ワーグナーの名を挙げなければなりません。ワーグナーはウィーンの生み出した最も重要な建築家であるばかりではなく、ヨーロッパの建築史上でも極めて重要なひとりです。ウィーンの街を歩けば、随所でワーグナーの作品に出会うほどです。ワーグナーも歴史主義からスタートし、19世紀の最後の10年間に独自の境地を切り開きました。代表する建築物としては、カールス広場の駅舎(ワーグナー・パビリオン)、リンケ・ウィーンツァイレ通りの豪華に飾った賃貸住宅用の建物、シュタインホーフ教会、郵便貯金会館、そしてシュタットバーンの駅舎です。次に挙げられるのはワーグナーの弟子、ヨーゼフ・マリア・オルブリッヒです。彼はウィーンでの最もセンセーショナルな建築物、セセッシオン(分離派会館)を設計しました。

    ウィーンのユーゲントシュティールの初期の段階は、世紀の変わり目の直後に終わります。ヨーゼフ・ホフマンがユーゲントシュティールの装飾文様から転向し、直角と厳密な黒と白とのコントラストを基調とする新しい純粋な様式を形づくります。これらの様式原理は、また手工業上の最大の要請に適う「ウィーン工房」の製品の中にも見られます。しかし本当の意味で過去との断絶を行ったのは、アドルフ・ロースが初めてで彼は現代建築術のパイオニアの地位を占めることになりました。


    最も重要なユーゲントシュティールの画家は、芸術と流行を雙つながらにうち出したグスタフ・クリムトです。クリムトは、美術史博物館の階段の間の壁画やブルク劇場の天井画を手掛けていた頃は、まだ完全に伝統的な歴史主義の画家でした。セセッシオンを設立した当時、ようやく新しい方向がみいだされたところでした。ユーゲントシュティールを代表する画家として、美術史上にその地位をゆるぎないものとしてクリムト独自の世界を示す決定的な代一作は1902年のエミーリエ・フレーゲの肖像画でした。それ以来装飾的で妖艶な女性像の数々が生み出され、そのなかでも最も有名な美しい絵画が1908年の「接吻」です。クリムトは若き芸術家に援助を惜しみませんでした。こうして世に出たのがエゴン・シーレ、オスカー・ココシュカです。表現主義的アヴァンギャルドに属しながら、これらの芸術家の絵画やグラフィック作品には、目前に迫ったハプスブルク帝国の終えんと二重写しに、絶望的なこの世の終わりの雰囲気が感じとられます。もう一人の早世の画家が、リヒャルト・ゲルストルです。どの潮流にも属さず全く独自の画風をもっていたため、不遇のうちに世を去りました。


    ウィーン工房

    芸術は一部の限られた人々のものではなく、生活のすべてが芸術でなければならない、というのがセセッシオン運動の基本理念でした。その中で1903年に、建築家ヨーゼフ・ホフマンと、デザイナーの草分けともいうべきコロマン・モーザーが中心となってウィーン工房が設立されました。ワーグナーの弟子であった多才なホフマンは、多くの建築の他、家具、食器、アクセサリー、そしてユーゲントシュティール模様の布地をもデザインしました。美術学校に学んだモーザーは、ホフマンの親しい友人として互いに協力しあい、ウィーン工房の主力デザイナーとして多方面で活躍し、有名な「Ver sacrum(聖なる春)」をデザインしました。

    建築の分野では、例えばワーグナー、ホフマン、またロースといった人間の考え方が、両次世界大戦間の時代まで影響を与え、オーストリアでは「インターナショナル様式」という様式が出現しました。しかし程よい「郷土様式」や社会的住居建築物 における表現豊かな建築観といった伝統的な要素も傑出した建造物を生み出しました。

    絵画とグラフィックの価値はファイスタウアーとユーリク、ギュータースロッホとココシュカ、同様にベックルトクービンの作品で証明されています。彫刻で は、ハナクとバルヴィッヒの名を挙げなければなりません。この両者は同時代のフランスの芸術に沿う方向を目指しました。1938年のドイツによるオースト リア併合を契機に、強制的あるいは自由意志にもとづく国外移住により、芸術活動の場は著しく貧困になります。

    第二次世界大戦後10年を経てようやく当代の建築術の基準に沿うような建築芸術上の創意が認められるようになります。今日の建築界の代表的人物に数えられ るのは、ハンス・ホライン、ヴィルヘルム・ホルツバウアー、グスタフ・パイヒル、ローラント・ライナー、それにカール・シュヴァンツァーです。

    彫刻界で決定的なのは、フリッツ・ヴォトルバとその弟子たちアヴラミディス、ベルトーニ、ホーフレーナー、フリドリチュカ、ラインフェルナー、ウルタイルです。

    絵画の世界では、ウィーン派の幻想的リアリズムの代表者たち(ハウスナー、レーエルプ、プラウアー、フッター、フックス、レームデン)とアルヌルフ・ライ ナー、マックス・ヴァイラー、マリア・ラッシング、キキ・コーゲルニク、フリーデンスライヒ・フンデルトヴァッサーなどの個々の芸術家が世界的に認められ ています。これらの人々は、同時代の芸術活動の場で目ざす方向も相反するような多様性を示しています。

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