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    • Hofburg - Imperial Palace
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    シシィの足跡をたどるオーストリアの旅

    ハプスブルク帝国ははるか昔に終焉しているものの、オーストリア国内にはこの時代特有の神話的なオーラが今も漂い、シシィの愛称で親しまれ畏怖された皇妃エリザベートの伝説は今も語り継がれています。シシィが暮らし、愛し、苦悩を抱えた場所をたどり、生命力あふれる皇妃を身近に感じてみましょう。

    バート・イッシュルのカイザーヴィラ

    はるか昔のこと、それはひと目惚れで始まった恋だったと言われています。バート・イッシュルの町で、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の目を奪ったのは、弱冠15歳の従姉妹エリザベートでした。本来ならば姉が花嫁候補だったことを知っていたシシィは、求婚の花束を受け取るのを大いにためらいました。しかし皇帝の決意は固く、一年後にはウィーンで結婚式が執り行われました。このとき、皇帝の両親からの結婚記念祝いのひとつとなったのがバート・イッシュルの別荘「カイザーヴィラ」でした。

    ハプスブルク帝国で最も有名な夫妻の別荘としては地味なたたずまい、ビーダーマイヤー様式の調度品も平凡なものばかり。しかしシシィには、田舎の牧歌的な風景の中に建つこの別荘が、最高の隠れ家になりました。帝都ウィーンの厳格なしきたりから遠く離れたこの宮殿を定期的に訪れ、シシィは夏の休暇を楽しみました。

    フランツ・ヨーゼフもまたバート・イッシュルで過ごすひとときを好み、シシィが暗殺された後には、それまで以上に「愛するイッシュル」で引きこもるようになりました。1914年、フランツ・ヨーゼフはこの地でセルビアに対する宣戦布告書に署名し、これを期に世界は第一次世界大戦へと歩みはじめました。

    フランツ・ヨーゼフが執務を行った書斎の机をはじめ別荘のすべてが当時のまま保存されており、現在は、夏季の期間中に別荘内の私室を見学することができます。基本的な建物の構造もかつてのままで、別荘を上から見下ろすとエリザベートの頭文字「E」のように見えるのが特徴です。

    ザルツブルクのレオポルヅクロン宮殿

    1853年の夏、涙で家族に別れを告げた後、シシィは結婚のためザルツブルクに向けて出発しました。ザルツブルクで待ち受けていた若き皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は、首都ウィーンまでシシィをエスコートしました。その後も夫の政治会議に同行して幾度もザルツブルクを訪れたシシィですが、従弟のバイエルン国王ルートヴィヒ2世を訪ねてレオポルヅクロン宮殿を私的に訪問するのを楽しみにしていました。1853年、国王は、雄大な山脈を背景に抱く白鳥のように純白のこのロココ式宮殿で、シシィとフランツのために絢爛豪華な婚約パーティーを催しました。

    皇妃と国王は親友同士で、どちらも厳格な宮廷の儀式を窮屈に感じ、エキセントリックな芸術や文化を好みました。ザルツブルグの旧市街に近いレオポルズクロン宮殿は、帝国が崩壊した後も、文化に関心のある人々にとって理想の城でありつづけました。1920年、マックス・ラインハルト、フーゴ・フォン・ホフマンスタール、リヒャルト・シュトラウスが立ち上げたザルツブルク音楽祭は、伝統的に宮殿にほど近いホーエンザルツブルク要塞で開催されています。現在は、ガイド付きのツアーで、この宮殿にまつわる歴史と、ここで暮らし、働いた人々のエピソードを知ることができます。さらにシシィのようにレオポルズクロン宮殿で一夜を過ごしたい人には、城の庭園を改装した贅沢なホテルの優雅なスイートでの宿泊がおすすめです。

    レオポルヅクロン宮殿は、ザルツブルクを舞台とする映画『サウンド・オブ・ミュージック』で、トラップ・ファミリーの暮らす屋敷の撮影地にもなりました。

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    ウィーンの南、ラクセンブルク宮殿

    「ウィーンの入り口にたたずむ王宮」といえるラクセンブルク宮殿での新婚生活は、シシィの期待とはいささか異なるものでした。国政の経験がまだ浅いフランツ・ヨーゼフは連日書斎で執務に勤しみ、残されたシシィはひとりぼっちで新婚生活を過ごしました。心の救いを求め、皇妃は、テンプルや洞窟、古木や草原、水辺、そして騎士たちが集う要塞を忠実に再現して小さな島に建てられたフランツェンスブルク城などを配した広大な宮廷の庭園をそぞろ歩きました。ペーター・ヨーゼフ・レンネが設計を手がけたこの庭園は、建立当時から優れた芸術作品として高く評価されており、現在もヨーロッパを代表する美しさを誇る歴史的な造景庭園として知られています。フランツェンスブルク城と同様に、この庭園も観光客に開放されています。

    孤独な新婚の数週間を過ごしながらもシシィは、城と庭園の風景を好んで幾度となくここに戻り、皇太子ルドルフをはじめ二人の子供もラクセンブルク宮殿で出産しました。

    シェーンブルン宮殿

    シシィは当代きっての美女であったと言われています。その贅沢なライフスタイルには、冒険旅行や豪華なドレス、そして高価な美容トリートメントが欠かせず、これが帝国の伝説ともなっていました。現在でも、ウィーンのシェーンブルン宮殿を訪れれば、輝くばかりの美貌を誇ったシシィの人となりを感じることができます。

    最高級の贅沢な刺繍をほどこした絹の生地が張られた調度品の数々。皇帝が好んだあざやかな紫色の壁紙。シシィの居室は生前のまま残されており、部屋の椅子に腰掛けてクリームを顔に塗り、くるぶしまで伸ばした髪を優雅に櫛で梳くシシィの姿を想像できます。

    シシィは、永遠に若く美しい姿で歴史に残りたいと願っていました。このため30歳を過ぎると、扇やベールで顔を隠し、決して自分の写真を撮らせることはありませんでした。しかし階段の下にしつらえたキャビネットに一歩足を踏み入れれば、皇妃の別の顔が垣間見えてきます。執筆室として設けたこの部屋に引きこもり、シシィは読書や物思いにふけり、日記や手紙を記し、無数の詩を綴りました。

    宮殿のもうひとつの見どころは、皇帝夫妻が使用した寝室です。1845年4月24日の婚礼に際して用意された部屋で、現在は、シシィにとって多くの義務に縛られた皇帝との結婚生活を象徴する場所となっています。若き新妻には、健康な世継ぎの男子をできるだけ早く産むことが期待されていました。結婚当初の数年間、シシィを苦しめつづけたこのプレッシャーは、1858年に長男で王位継承者となるルドルフが誕生するまで続きました。

    ホーフブルク王宮とシシィ博物館

    日傘と扇、珍しい美容レシピ、子ども用の靴、個人用の救急セットなど、ウィーンのホーフブルク王宮にあるシシィ博物館には皇妃の日々の暮らしを伝える品の数々が展示されています。公開された部屋を見学し、喪服や薬、日記、死亡証明書の原本などを目にすれば、生前すでに有名人として知られていたこう皇妃エリザベートの人となりが、ミュージカルや映画、テレビドラマが伝える姿とは大きく異なることが分かるはずです。この場所が伝えるのは、遊び好きで無邪気で永遠の若さを楽しんだプリンセスではなく、子どもを亡くし、うつ病に苦しみ、帝国の制約に囚われた皇妃の人生。1898年9月10日、暗殺者が心臓に突き立てた鋭い刃物で悲劇的な人生を終えたひとりの女性の姿です。

    シシィ博物館のすぐ隣にあるカイザーアパートメント(皇帝の住居)では、今まさに皇妃が旅立ったばかりのような雰囲気を味わえます。シシィの寝室には、鉄製の地味な折りたたみベッドが置かれており、可能な場合には常にこれを旅に持参していました。鏡台には今すぐ使えるようにヘアブラシが残されています。シシィは毎日、その美しい髪を3時間かけて梳いたといいます。壁には今も、自分を律して身体を鍛えるための体操用のバーと吊り輪が架けられています。シシィは、宮廷の儀礼に反抗して夢中になった乗馬のハードな動きに対応できるよう、特に背中を鍛えたいと考えていたようです。実際に、シシィは当時、一流の馬術者として認められていました。王宮内をめぐる特別なガイドツアーのタイトルは「Lay Me at Your Majesty's Feet(陛下の足元にひれ伏そう)」。誰よりもシシィの近くで、その人生をつぶさに目にした部屋付きの小間使いに扮した知識豊富な博物館のガイドが、カイザーアパートメントを案内してくれます。

    Innsbruck Imperial Hofburg Giant Hall
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    インスブルックのホーフブルク王宮

    アルプスの都市インスブルックの歴史地区にたたずむインスブルックの王宮は、皇帝マキシミリアン1世の時代に建立され、その後何世紀にもわたりハプスブルク帝国の歴代皇帝の王宮として使われました。画家アルブレヒト・デューラーも描いたこの宮殿は、オーストリア・ハンガリー帝国を偲ぶ最も重要な史跡の一つです。

    シシィの夫である皇帝フランツ・ヨーゼフ1世も、その長い治世にわたり、この宮殿で多くの時間を過ごしました。しかし自由への強い欲求を抱えたシシィは、宮廷のしきたりと距離をとることを選び、この城へはメラーノの街へ向かう際に立ち寄るだけでした。

    現在では、宮殿内で公開されているマリア・テレジア専用の居室とマキシミリアン1世に関する常設展を通じて、帝国の歴史や、いにしえの世を治めた皇帝たちの力と富をうかがい知ることができます。

    Drone view - Schloss Fuschl
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    フッシュル城

    若きエリザベートに扮した女優のロミー・シュナイダーは、のどかな山々の風景を背に馬を駆り、おとぎ話のような城のまわりを散策しました。エルンスト・マリシュカ監督は、伝説的な映画『プリンセス・シシー』三部作の中で、若かりし頃のエリザベートを、楽しむことが大好きで自然を愛し、バイエルンの方言で話し、ドイツのシュタルンベルク湖地方で自由な少女時代を過ごした女性として描きました。

    マリシュカ監督が1950年代に三部作の撮影で実際に使用したのはバイエルンのポッセンホーフェンの街に実在する城ではなく、オーストリアのザルツブルク州にあるフッシュル城でした。かつて狩猟のための山荘として使われていたこの城の足元に広がるのは、鮮やかなブルーの水をたたえたフッシュル湖。ザルツブルク湖水地方の美しい牧草地や渓谷、森や山々に囲まれたこの場所は、ロマンチックなラブストーリーの舞台として理想的でした。

    現在は城壁の内側に建つ豪華なホテルの優雅な調度品を備えた部屋を目にすれば、帝国時代の贅沢な暮らしぶりを想像することができるものの、この場所でシシィの真の姿に近づくことはできません。しかし三部作を通じてスターの座をつかみ、この城に滞在しながら撮影に臨んだロミー・シュナイダーの面影を身近に感じることはできるはずです。実際に映画で使われた小道具を展示した博物館を訪れれば、ロミー・シュナイダーがエリザベート役を、カールハインツ・ベームが皇帝役を演じた撮影の様子を知ることができます。

    宮廷御用達店とシシィの愛したお菓子

    シシィは、スポーツと厳格な食生活を通じて、みずからが理想とする美しさを追求しました。当時の流行に反して、シシィは特にスリムな体型を保つことにこだわりました。一日に口にする食事が、オレンジ2個とスミレのアイスクリームひと口だけのこともあったと言われています。皇妃は、オーストリア名物の繊細な味わいのこのシャーベットをウィーンの菓子舗の「デーメル」に注文し、王宮まで届けさせていました。現在もデーメルでは、伝統のレシピで作られたスミレのアイスクリームを味わうことができます。

    ウィーンの旧市街の中心部にある「カフェ・ザッハー」では、帝国時代に知識人たちが確立した有名なウィーンのカフェ文化を体験できます。シシィもまた、かつてこの気品ある伝統的なカフェに訪れ、かの有名なザッハーケーキを味わいました。当時の請求書の原本を見れば、シシィがこの店を頻繁に訪れていたことがわかります。

    さらに、シシィのようにバート・イッシュルで夏の休暇を楽しむならば、ハプスブルク皇室御用達の菓子舗「カフェ・ツァウナー」に立ち寄って、チョコレートのアイシングをまぶしたスミレ色の飴玉を注文するのがおすすめです。ここでも、シシィのお気に入りのスイーツを、オーストリア帝国時代と変わらぬ味わいで作りつづけています。

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