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    シシィ - オーストリアの自由奔放な皇妃

    皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は、その年若く無邪気な少女に目をとめました。シシィという愛称で呼ばれた15歳のエリザベートは息を飲むほど美しく、輝くような若さを放っていました。皇帝はひと目でシシィに心を奪われ、シシィの人生は永遠に変わることになりました。しかしこの時、自由を愛するシシィには、みずからを待ち受ける苦難の日々を予想することができませんでした。

    Sisi Museum Vienna
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    歴史に刻まれた運命の瞬間

    エリザベート一行の荷物に何が起こったのかは永遠の謎です。しかし色とりどりの夏のドレスを入れたスーツケースは最後まで見つかりませんでした。その日、バイエルンのルドヴィカ公爵夫人と娘のヘレーネ、エリザベートは、過日の叔母の逝去を受けて喪に服していました。このため運命の日となった1853年8月16日に、一行は黒い喪服を身につけて皇帝の前に参上しなければなりませんでした。実はこの日、ザルツカンマーグート地方の風光明媚な町バート・イッシュルで、ハプスブルク帝国の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世にお目見えすることになっていたのは姉のヘレーネの方でした。生真面目な性格のヘレーネは当時17歳。黒い服に身をつつんだ姿は禁欲的で堅苦しく見えました。ヘレーネに挨拶の言葉をかけながら、フランツ・ヨーゼフ1世の視線はヘレーネの隣に立つ、弱冠15歳、元気いっぱいのシシィことエリザベートに注がれていました。
    時として、たった一度の運命の瞬間が人生を全く別の方向へ変えてしますことがあるように、バイエルンの小さな町で生まれた少女を伝説的な皇妃に変えてしまいました。バート・イッシュルの出会いもまさに運命的な出来事でした。 出会いからわずか2日後にフランツ・ヨーゼフはエリザベートに求婚し、8ヶ月後にはウィーンで結婚式が執り行われたのです。オーストリアで最も長い治世を誇るハプスブルク王朝の歴史の中でも、エリザベートほどの名声を享受した妃は他にいません。死後約125年を経た現在でも、エリザベートの伝説はひときわ輝いています。しかし一方で、多くの歴史家が、さまざまな伝説の陰に隠れた真実のシシィの姿を判断しかねているのも事実です。

    不幸な結婚生活

    結婚初日から、若く元気な皇妃は、ウィーン宮廷の厳格な慣習に窮屈さを感じました。ラクセンブルク宮殿で始まった新婚生活は悲惨なもので、若き皇帝がデスクで執務に専念する一方、新妻は宮殿の庭で涙に暮れていたといいます。シシィを待っていたのは、厳しい義務と儀式に囲まれた宮廷での暮らしでした。結婚後の数年間、夫妻は各地の宮殿や邸の間を旅しながら暮らしました。ホーフブルク王宮からシェーンブルン宮殿へ、インスブルックの王宮からザルツブルクのレオポルズクロン宮へ、ウィーンのホーフブルク王宮からバート・イッシュルの別荘へ。しかし単調な儀礼と決まりごとに縛られた暮らしが何週間、何ヶ月、何年も続くだけで、シシィが期待するような冒険に満ちた華やかな日々が訪れることはありませんでした。シシィにとって新婚生活は宮廷に支配された制約の繰り返しでしかありませんでした。

    皇妃の憂鬱は、長女のソフィー・フリーデリケが誕生しても変わりませんでした。ソフィーは2歳で夭逝し、その後まもなく次女のギーゼラが、そして国民が待ち望んだ皇太子ルドルフが誕生し、シシィは21歳で3児の母になりました。しかし皇室の慣例に従い、エリザベートは自らの手で子どもたちを育てることができませんでした。

    旺盛な独立心のおもむくままに生きるシシィは、献身的で穏やかな妻にも、愛情深い母親にも、ましてや強大な王朝の象徴になることも拒み、決まりきった宮廷の期待に反旗をひるがえし、自由な暮らしを追求しはじめました。フランツ・ヨーゼフは、みずからの地位と伝統をめぐる常識が許すかぎり、型破りで自由を愛する妻の望みを受け入れました。しかしシシィはこれに満足できず、黄金の檻の中に囚われた暮らしの中で病を得て、ついには宮廷から逃れ出たのです。

    • 終わりなき旅の日々

       ウィーンの宮殿からギリシャのコルフ島へ向かうあわただしい旅立ちが、ほんのひとときの中断を除きシシィの生涯にわたり続いた長い旅路の始まりとなりました。エリザベート皇妃はその後、人生の終わりの日まで、世界各地を旅しながら本当の自分を探しつづけました。温泉のある町から町へ休むことなく移動し、一ヵ所にとどまるのはわずか数週間、その合間には厳格なスポーツプログラムを実行しつづけました。その足取りに追いつくため、メイドたちはしばしば馬車で皇妃を迎えに出かけたといいます。この頃までにシシィは時代を代表する女性騎手となっており、食生活は過度に厳格で、体重が47kgを上回ることは決してありませんでした。

    • そんなシシィが特に好んで口にしたのは、デーメルのスミレのアイスクリームと、ホテル・ザッハーで人気のチョコレートケーキ「ザッハートルテ」でした。

      海を愛したシシィは、ひどい嵐の中でも船で航海し、肩に錨のタトゥーを彫っていました。やがて皇妃は自分のポートレートの撮影を一切許可しなくなりました。最後に公開した写真は30歳のとき、肖像画は40歳のときのものです。ついにお付きの女中以外には顔を見せることもやめ、自室を出ると同時にベールや扇、日傘で顔を隠すようになりました。まるで、バート・イッシュルで皇帝をとりこにした、あの運命の日の輝くような美しい少女の姿のままで永遠に生き続けることを決意したかのように。

    Sisi in the film, the biography of Romy Schneider, Hofmobiliendepot (Imperial Furniture Museum) / Hofmobiliendepot (Imperial Furniture Museum)
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    映画スター

    始まりのロマンス、自己決断と独立への欲求、晩年のエキセントリックな暮らしぶり、オーストリア皇妃エリザベートはハプスブルク家きっての有名人になりました。

    1950年代には、女優のロミー・シュナイダーが演じた映画『プリンセス・シシー』の3部作でシシィは世界的に有名になり、その後、テレビ映画やミュージカルでも取り上げられました。

    2022年、Netflixは全世界でオーストリアの最も有名な皇妃を描いた新シリーズ「皇妃」を開始しました。

    Franz-Joseph-Vault in Vienna / Capuchins' Crypt
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    最終章

    1898年の皇妃の死は、その人生と同じく非凡な出来事でした。その瞬間、シシィは自分が受けた傷に気づかなかったといいます。ジュネーブ湖のほとり、暗殺者が手にした鋭利な刃物がシシィの心臓を深く貫きました。ところが皇妃は男が自分を殴っただけだと思い、立ち上がると道行く人たちに騒ぎを詫びて、お付きの女中とともに湖を渡る船へと急ぎました。しかし船上でついに皇妃は倒れ、「いったい何が起こったの?」という最後の言葉を口にした数分後に、ハプスブルク家の歴史の中で最も有名な人物となった女性は息を引き取りました。たった一滴の血痕を残したドレスは、運命の日にバート・イッシュルで身につけた喪服と同じ黒い色でした。

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