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    • ウィーン楽友協会 / Vienna
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    音楽の美を追求した作曲家マーラー

    「残念ながら、私は結局のところウィーン人だ......」と、1910年にグスタフ・マーラーはニューヨークで書いています。この文章は、ウィーンの宮廷歌劇場総監督時代の困難な日々にもかかわらず、作品に大きな影響を与えたウィーンに対するマーラーの相反する感情を表しています。ここでは、ウィーンにおけるグスタフ・マーラーの創作活動を形作った最も重要な出来事をいくつか見てみましょう。

    Karlskirche in Wien / St. Charles' Church
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    グスタフ・マーラーの足跡を訪ねて (1860 - 1911)

    ボヘミア出身の非常に才能ある少年が、1875年、ピアノでリストを演奏する上で信じられないほどの才能を発揮しました。そして、この少年はボヘミアからウィーンに移り、楽友協会付属の音楽院で音楽教育を受けることになります。当時、ウィーンはグリュンダーツァイト( 経済史における1848年革命から1873年の株式市場の暴落までの四半世紀を指すいわゆる創業時代)の最盛期で、ドナウ王国の芸術、音楽、文学の文化の中心として栄えていました。

    1902年、マーラーはウィーンのカールス教会で、自らも優れた音楽家であったアルマ・シンドラーと結婚し、ウィーンの知的中産階級のサークルで地位を固めました。

    Gustav Mahler potrait of the composer
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    マーラーが創作に励んだ時期は、音楽史上で過渡期にあたる時代でした。彼は19世紀後半のオーストリア帝国に根をもっていますが、ワーグナーの影響を強く受けて、それを脱していきました。調性の世界にしっかりと留まりながらも、平明な器楽編成法や、調和のとれた旋律、音楽内容の飾り気のない明快さを持ち合わせているという点で、すでに20世紀の素地をつくりました。才能ある若いマーラーは、プラハ、ブダペストから、ライプツィヒ、ハンブルクの音楽監督の職を歴任し、オーストリア帝国、ドイツ帝国の指揮者として華々しい一歩を踏み出しました。そして、1897年にウィーン宮廷歌劇場(現在のウィーン国立歌劇場)の総監督に就任し、ウィーンの音楽史に新たな時代を刻むことになりました。10年という長い就任中、エネルギッシュで理想主義的に、芸術の統合に力を注ぎ、自分の総合音楽劇場という着想を決して曲げようとしませんでした。管理面でもきわめて厳しく、劇場の旧弊を一掃し、ずさんな練習や根強い縁者びいきを排除して、実力と功績で選んだ一座をつくりあげました。また、厳しいリハーサルシステムを導入し、歌手を登用したり、解雇したりし、自ら手本を示して、劇場を改革し新しい息吹を吹き込みました。

    Musikverein Vienna / Vienna
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    その後、マーラーはウィーン・フィルハーモニーの常任指揮者として(1898-1901)、ブルックナー、ドヴォルザーク、リヒャルト・シュトラウスといった、新しい作曲家達の曲をレパートリーに入れました。ウィーンの評価は分かれました。オペラ愛好家は喝采を浴びせましたが、音楽関係者の内部では、対決姿勢が強められ、悪意ある陰謀も見られました。社交術などひとかけらもないマーラーは、音楽界で多くの敵を作り、それでもひたむきに音楽の美を追求したのです。音楽の家では、マーラーと宮廷歌劇場の同僚たちとの険悪な関係について知ることができます。

    Carl Moll, Ringstrasse in Vienna, 1902 / Albertina, Vienna
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    ウィーンを去る

    しかし、1907年、ついに終局が訪れました。行く手の障害物を取り除くことに疲れ、娘の死に悩み、自分の心臓の危険な状態に生活態度を全面的に変える必要があると診断を受けて、ついにマーラーはウィーンを去ることを決意し、ニューヨークのメトロポリタン・フィルハーモニーの指揮者兼音楽監督の地位を受け入れました。メトロポリタン歌劇場との契約はマーラーにとって非常に魅力的で、結局、ウィーン宮廷歌劇場総監督の契約は10年で終了しました。1907年12月、ウィーン西駅からウィーンを去るマーラーの出発の様子はまさに壮大なものでした。新世界への旅立ちに際して、200人を超える巨匠の友人たちが別れを告げに来ました。その中には、画家のカール・モル、グスタフ・クリムト、音楽家アルバン・ベルク、アーノルド・シェーンベルクなど、多くの芸術家が含まれていました。

    私たちが到着したとき、彼らはすでにそこに立っていて、手には花、目には涙を浮かべながら、私たちの車両に乗り込み、車内を、座席を、床を花で覆ったのです。列車が走り出すと、グスタフ・クリムトがみんなの心の声を代弁しました。「終わってしまった!」。

    Gustav Mahler composing paper
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    アルマ・ マーラー
    • 避暑地で作曲に打ち込んだマーラー

      マーラーは夏の作曲家で、主な作品のほとんどをオペラ・シーズンの合間の夏に、ザルツカンマーグートのシュタインバッハや南部ケルンテン州のヴェルターゼー湖畔のマイアーニックで書き上げました。ニューヨークにいるときでさえ、南チロルに戻ってきては、休暇中に作曲に励んだのです。

          Gustav Mahler composer's cottage
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    • 彼が完成させた9つの交響曲と未完成の交響曲第10番、カンタータ、連作歌曲には、マーラーの個性があますところなく表されています。「やがて私の時代がやって来るだろう」という、マーラーの言葉は予言的です。なぜなら当時は彼はウィーンで自分の交響曲を上演したことはなく、また、第二次世界大戦後に至るまで、マーラーの作品はほとんど無視されていました。今日では、彼はオーストリアで本格的な評価を受け、理解されています。

          Mahler Sujet Steinbachfestival
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    オーストリアの作曲家

    •                         Mozart statue in Burggarten
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      モーツァルトを訪ねるウィーンの一日

      ヴォルフガング・アマデ・モーツァルトの足跡を訪ねてウィーンを散策する一日。モーツァルトがウィーンで何を発見したか、探検にでかけましょう。
      モーツァルトと散策
    •                         Statue of Schubert, Stadtpark in Vienna
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      シューベルトの足跡を訪ねて

      ウィーンはシューベルトの主たる音楽活動の地で、インスピレーションの源でしたが、オーストリアの鮮やかな景色と、夏の美しい田園風景を楽しむために、シューベルトは故郷の街を離れることがよくありました。
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