オペレッタ『こうもり』初演150周年
ワルツ王ヨハン・シュトラウス2世のオペレッタ『こうもり』は1874年4月5日にアン・デア・ウィーン劇場で初演されました。『こうもり』はオペレッタの最高傑作、オペレッタを知らずしてウィーンは語れません。抱腹絶倒のコメディのあらすじと、作品が生まれた意外な時代背景、そして『こうもり』を何倍も楽しむ方法をご紹介します!
“ワルツ王”ヨハン・シュトラウス2世のオペレッタ『こうもり(Die Fledermaus)』は、1874年4月5日にアン・デア・ウィーン劇場で初演されました。1825年生まれのヨハン・シュトラウス2世は当時48歳。当代最高のスター作曲家として名声を馳せており、一説にはこの作品をたったの6週間で書き上げたといいます。
オペレッタはオペラとは異なり、セリフと華やかな踊りが含まれます。シャレた会話や政治風刺が笑いを誘い、結末もほとんどハッピーエンドです。特に『こうもり』はオペレッタの最高傑作との誉れ高く、序曲やアリアはしばしば単体で演奏されるほど人気です。現在、オペラとバレエを公演するウィーン国立歌劇場で観られる唯一のオペレッタはこの『こうもり』で、大晦日と年始に上演されます。オペレッタの殿堂、ウィーン・フォルクスオーパーでは年末年始の他に、音楽シーズン中にも鑑賞できます。
この愛すべき作品を、初演150周年の記念年により一層堪能できるよう、簡単なあらすじと、作品を何倍も楽しむ方法、そして作品が誕生した1874年の時代背景をご紹介します。
『こうもり』のあらすじ
こうもり』をより楽しむQ&A
ヨハン・シュトラウス2世ゆかりの地
①ウィーン市立公園のシュトラウス像
②『こうもり』が作曲されたシュトラウスの家(1870-78年)
Maxingstraße 18の記念レリーフ。内部は非公開。
③ハウス・オブ・シュトラウス
ウィーン郊外、街中からホイリゲの多いエリアに行く途中にあるハウス・オブ・シュトラウスは、1837年ツォーゲルニッツ・ガーデンパレスとして建てられ、当時のウィーンの上流階級の社交場でした。シュトラウス一家やカール・ミヒャエル・ツィーラー、ヨーゼフ・ランナーらが舞踏会で演奏しました。この秋にミュージアム、コンサート会場、イベントロケーション、レストラン、音楽マスタークラスなどの多機能な施設として生まれ変わりました。コンサートホールは音響が良く、往年の名指揮者ニコラウス・アーノンクールはウィーン・コンツェントゥス・ムジクスとの録音に、このホールを使いました。
④ヨハン・シュトラウスの住居
1860年中頃から1870年まで住んでいた住居が記念館になっています。1867年、オーストリアの第二の国歌と言われるほど愛されている『美しく青きドナウ』がこの家で作曲されました。
⑤中央墓地にあるシュトラウスの墓(名誉地区32A-27)
時代背景:『こうもり』が誕生した1874年とは
オーストリア・ハンガリー二重帝国成立 (1867年) の7年後。1918年の第一次世界大戦敗北による帝国解体に向かいつつある、ハプスブルク家の斜陽の時代です。皇帝は実質最後のハプスブルク帝国皇帝となったフランツ・ヨーゼフ1世。皇妃はバイエルン出身のエリザベート。
● 前年の1873年には、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の即位25周年を記念した「ウィーン万博」が開催されました。日本を含めた35カ国が参加し、ウィーンは一気に国際都市となりました(『こうもり』の第2幕のパーティの客人が多国籍であることは、これを反映しているという解釈もあります)。
● 1873年5月に金融バブルが弾け、ウィーン証券取引所で株式が大暴落。ヨーロッパ各国と北アメリカに広がり、「大不況」「1873年恐慌」と呼ばれる金融危機に陥りました。
● 万博開催期間にホテルでコレラが発生。ウィーン中に蔓延し、3,000人近い犠牲者を出しました。
―――こうして、劇中の軽快なメロディとは裏腹に、1874年のウィーンは重苦しい空気を引きずっていました。個人の力ではどうすることもできない閉塞感と不安。「すべてはシャンパンの酔いのせい」にして歌い踊り、仮りそめと分かってはいても、楽しい時間を過ごそうじゃないか―――。『こうもり』は、ヨハン・シュトラウス2世からウィーンの人々への贈り物だったのかもしれません。