グスタフ・クリムト、天才そして快楽主義者
グスタフ・クリムトは、ユーゲントシュティールを代表する最も重要な一人であり、ウィーン分離派の共同創始者であるだけでなく、真の快楽主義者でもありました。
表現主義の画家、オスカー・ココシュカは、ドナウ河畔の小さな町ペヒラルンで生まれ、生涯を通じて故郷を愛し続けたオーストリアの偉大な芸術家です。ニーダーエステライヒ州のペヒラルンでは、今日、この有名な画家はかつてないほどの存在感を示しています。
「もちろん、町にとって誇りであり、本当に特別なことです」とベルナデッテ・ラインホルト博士は語ります。「何しろペヒラルンはわずか人口4000人の町ですから。オスカー・ココシュカがこの町で生まれ、その生家であるココシュカ・ハウスが、現在、展示/文書館となっていることはまたとない幸運です」。芸術愛好家たちから親しみを込めて“OK”と呼ばれるオスカー・ココシュカは、ごく早い時期に生まれ故郷を離れたものの、現在もニーダーエステライヒ州のドナウ河岸の小さな町ペヒラルン(Pöchlarn)の代名詞となっています。
実際、ペヒラルンを歩くと、いたるところでココシュカに遭遇します。彼の絵画の巨大なブローアップが、あちこちの家のファサードに見ることができ、特に循環路「グレートココシュカ2.0」を歩けば、『テマキンのマラブー』、『仮面のある静物画』、『首飾りの少女』などの作品が掲げられたすべての家を通ることができます。また、生家とかつての納屋を利用した展示センター「オスカー・ココシュカ・ドキュメンテーション」では、ココシュカについてさらに詳しく知ることができます。
「“OK”は常にペヒラルンと繋がっていました」と語るラインホルト博士は、ウィーン応用美術大学の オスカー・ココシュカ・センターの館長であり、ココシュカの研究者です。「彼は事あるごとに、生まれ故郷について語っていました」。オーストリアを離れ世界各地に出かけたココシュカですが、ロンドンに滞在しようが、中東を旅していようが、ジュネーブ湖で制作していようが、ドナウ川は常にココシュカの核でありつづけました。
戦後、ペヒラルンの人々は地元の偉大なる名士であるココシュカの存在を思い出しました。そして1950年代にココシュカは故郷の町を訪れ、名誉市民になりました。「ココシュカの実家にドキュメンテーションセンターを設立したことは、彼にとっての永遠の里帰りを意味しました」。
「すべてが常に流動し、さまざまな影響をもたらす川のほとりで生まれたことが、彼にとって非常に重要だったのです。ドナウ川流域はOKの核となる場所でした」
1886年生まれのココシュカは、今日であればマルチタレントと呼ばれたことでしょう。彼は戯曲や短編小説を書き、劇場の装飾や教会のモザイク画をデザインしました。特に絵画制作に力を入れましたが、同時代の他の画家とは一線を画していました。ココシュカは肖像画で名声を得ましたが、その関心事は顔の忠実な再現ではなく、顔の背後に潜んだ本質的な性格や人格を描き出すことにありました。
ココシュカの絵に描かれた人々の中には、楽観的な面もあれば、不安や内面の葛藤、時には悲しみや苦しみも見て取ることができます。ココシュカの芸術はしばしば「魂の絵画」と呼ばれます。OKは常に、外見だけではなく人格のすべてをキャンバスに捉えようと試みたのです。
彼はペヒラルンで多くの時を過ごしたわけではありません。早い時期に彼はドナウ川を下ってウィーンに移り、後の名声の基礎を築きました。第一次世界大戦後にはドレスデンで教授の職に就きましたが、1923年に無給休暇を取ったまま二度と戻ることはなく、代わりにヨーロッパ、北アフリカ、近東を何年も旅し、スケッチや絵画を制作しました。
ナチスによる誹謗中傷を受けたOKはロンドンに移住し、英国の宥和政策を非難して戦時下の子供たちの苦しみに目を向けさせる政治的作品を制作しました。放浪者のような生活をしていたココシュカですが、後にレマン湖のほとりに故郷にも似た安住の地を見つけ、1980年に94歳で生涯を終えました。
ココシュカは何より人の顔に興味を持ち、作品のほぼ半分は頭部を描いたものです。アドルフ・ロース、カール・クラウス、ゴルダ・メイア、エズラ・パウンド、テオドール・ホイス、ルートヴィヒ・エアハルトが彼のモデルになりました。
1966年には、当時のドイツの首相コンラート・アデナウアーの肖像画を依頼されました。最も有名な作品の1つとなったこの絵は、16年間にわたり、アンゲラ・メルケル元首相の執務室に飾られていました。
「時代の鼓動を間近に感じ取ること」は、政治に関心の高い芸術家オスカー・ココシュカにとってお気に入りのフレーズであったに違いありません。
グスタフ・クリムトは、ユーゲントシュティールを代表する最も重要な一人であり、ウィーン分離派の共同創始者であるだけでなく、真の快楽主義者でもありました。
ザルツカンマーグートは、ビーダーマイヤー時代の人気のリゾート地です。18世紀から19世紀への変わり目にあたるビーダーマイヤー時代には、上流階級たちの間で自然を体験するために避暑地へ赴くというが人気でした。自然に対する考え方は画家や音楽家、科学者たちの間でも創造性に刺激を与え、新しいライフスタイルが誕生しました。